当分苑の活動に関心のある方は、下記にご連絡下さい。
問いあわせメール
NEW!第10回平和と非暴力の活動国際会議
NEW!10th International Conference on Peace and Nonviolent Action
共謀罪 陰謀の実態 - スサノヲと八岐大蛇寸断の物語 -
第9回平和と非暴力の活動国際会議
9th International Conference on Peace and Nonviolent Action
2016年 新年のご挨拶
英訳『五情の戒律』 The Five Activities of the Mind
英訳『霊界物語第40巻13章 試の果実』 The Story of the Spirit World Vol. 40 Chapter 13
ハイデラバードでの世界仏教文化協会主際の会議におけるスピーチ
目崎真弓
2015年1月の月光分苑 月次祭を1月11日おこなわせていただきました。
華道(日本文化)を通じて十数年、イタリアで宣教活動を続けている目ア真弓さんの活動が、パルマの新聞で報道されました。
アヌヴィバ主催・第8回国際会議「非暴力の未来にむけて」
Seeking for a Non-violent World: Sharing New Values
英訳『霊界物語第40巻12章 心の反映』 The Story of the Spirit World Vol. 40 Chapter 12
緊急提案
震災・原発事故被災者救援のために玉井資金を全額投入せよ
論説・エッセイ・座談
座談『霊界物語の読みかた』
座談『ことたまの助くる国』
『神の国』誌掲載の「出口汪さんのメール文」に対する佐藤隆氏の反論掲載について
武田崇元
宗教法人愛善苑機関誌『神の国』2012年7月号に掲載の「出口汪さんのメール文」に関して
佐藤隆
トスカーナの女神
目崎真弓
訴訟と神話
目崎真弓
出口王仁三郎とモーツアルト
大説
『神の国』343−4号に掲載の塩津晴彦役員の妄論について
武田崇元
出雲参拝記・スサノオゆかりの神社をたずねて
松田 明
霊界物語・音読のお願い
目崎真弓
夏祭りの台所お手伝いを終えて
目崎真弓
教団公職者の責任について
武田崇元
迷走する『神の国』誌
有志緊急座談会
雛形としての自覚
松田 明
愛善苑の新思想
インド・ウダイプルにて
目崎真弓
月光分苑 活動の記録
2007年(平成19年)
第6回 平和と非暴力の行動、国際会議への参加
平和への創造的非暴力
愛善苑宣伝使 目崎真弓
非暴力:強力な交渉手段
白梅の会 奥原康晴
2006年(平成18年)
インド・ジャイプールにて開催のIOU円卓会議における目崎真弓のスピーチ(日本語翻訳)
同英文
2001年(平成13年)
第六回イタリア沖道国際交流会と愛善苑海外宣伝の旅
1999年(平成11年)
イタリア訪問をふりかえって 松田明
出口和明先生イタリア宣教同行記 目崎真弓
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以下は2006年11月に配布した資料の再録です。
「改竄の実例」をご覧になったうえで、お読みください。
自分の文章を挿入して「抄出」とは?
五郎 これはひどいですね。
武田 ええ、添付の資料を見て頂ければわかりますが、聖師のお文を文字どおりズタズタにしているわけです。しかも、これはほんの氷山の一角です。なんとか、今日にまにあわせようと竹野君に手伝ってもらい、徹夜で作成したのですが、とても手がまわらない。遡っていくと出るわ、出るわで際限ありません。それぐらいひどい状況です。照合するにつれ、唖然とするというか、言葉もなく、むなしくなってきましたからね。
真弓 聖師を永遠の苑主と仰ぎ、物語を教典と位置づける愛善苑としては絶対に許されないことですね。
武田 たとえば11月号の「王仁言霊」(37)を見て下さい。これはもう精神異常というか、なにか憑いているとしか思えません。最初の「追善供養」という文章、これは聖師の原文を大幅に削ったうえで、「例えば本部で霊祭を行うことも同様で、御魂の向上については、追善供養が大切な理由である」という自分の文章をつけ加えています。それを『水鏡』からの抄出だというわけですから。ふつうの神経ではできません。
真弓 これは、改竄ですよね。原文では、供物は僧侶でも神主でも、誰の手でしても要は想念が大切という普遍的な真理を述べておられるわけでしょう。その箇所を削って、「本部の霊祭」という原文にない言葉を挿入して、いったいどういう意図があるのでしょう。「本部の霊祭」なんてセクト的なことを聖師がおっしゃるはずもない。しかし、愛善苑の機関誌に掲載されている聖師の文章が改竄されているなんて誰も夢にも思わないわけですから、これを聖師お言葉、お考えだとふつうの人は思ってしまう。そこが問題です。
武田 「抄出」というのは、広辞苑には「抜き出して書くこと」とあります。どこにも「書き換える」という意味はありません。編集実務上においては、「抄出」する場合には、抜き出した原文にはいっさい手を加えず、略したところは(中略)とか(後略)とか明記するのが原則です。そういう条件さえ満たしていれば、抄出が絶対にダメというほどぼくは教条主義ではありませんが、これはもはやその範疇を完全に逸脱しています。
真弓 わたしは、そういう広辞苑にいう意味での「抄出」ですら、よほど慎重でなければならないと思います。現に「神社参拝の心得」をご覧ください。聖師さまは、最後のところで、なぜ境内の露天で買い物をすることが「神さまのお喜び」につながるのかという理由をはっきりと述べておられます。それを勝手に削除した結果どうでしょう。これでは、かりに前半部をまったく書き換えずに収録したとしても、なぜ神さまがお喜びになるのかまったく理解できません。これだけ読んだ外部の方が、聖師様はこういう明瞭性を欠いた文章を書く人か、この程度の人かと誤解すれば、いったいどうするつもりなのか。
武田 たしかにその通りです。安易に考えてはいけない。
真弓 聖師さまの文体や語り口にはには独特のリズムがあります。たとえば、「王仁言霊」(33)に掲載の物語第三十八巻第一章「道すがら」ですが、三行目で「初発」を「はじめ」、四行目で「仰望しても」を「仰ぎ」と書き換えうえに、五行目で勝手に文章を切って、「しかし」でつなぎ、七行目で「あらねばならぬ」というところを「はず」に書き換えています。これをですよ、聖師様の原文と改竄された文章を声を出して読み比べてください。原文のもつリズムというか波動が、まったく失われてしまっているでしょう。こういうことを「王仁言霊」というタイトルで平気でやってますが、これは聖師の「言霊」の破壊ではないでしょうか。
五郎 この「道すがら」は、「抄出」ではなしに、「集約」となってますが、いったい「集約」ってなんですか?
武田 テキスト処理にかかわるものとしては「集約」という概念はありません。「ただいまの発言を集約しますと……」というような使い方をしますが、ある著述を要約することはあっても、集約するというようなことはないでしょう。実際、この「王仁言霊」シリーズでは、「抄出」でも「集約」でもやっていることは同じです。恣意的に切り刻んで、書き換えているのです。
真弓 「王仁言霊」(36)の「運命を変える」というのは、今度は別々の聖言を勝手に書き換えたうえに、切り貼りして合体させていますね。
武田 これなんか、もう怒りを通りこして、唖然としましたよ。後半部は照合する気力が失せました。まあ、これこそ「抄出」ではなしに「集約」かもしれませんがね。
五郎 しかし、こういうふうに原文を勝手に書き換えたり、別々の箇所をつなぎあわせたり、こういうことは、聖師の著述でなくても、ふつうありえませんよね。
武田 そりゃ、ないですよ。『共産党宣言』からの「抄出」だとか「集約」だとかいって、勝手に語句を書き換えたり、マルクスが言うてもいないことを付け加えたりする人はいないでしょう。『我輩は猫である』の「集約」だとかいって、登場人物に原作にないセリフを喋らせますか。こんなことやっちゃいけないことは、小学生でもわかるでしょう。ましてや宗教文書ですよ。そのへんの教会で、聖書の文言を勝手に書き換えたり、坊さんがふたつのお経をつなぎあわせたりしますか。こんなこと、もしもイスラム教でやってご覧なさい。金子さん辞任しなさいとか、自己批判しなさいですまんですよ。
表記と表現
武田 ここで「表記」と「表現」という問題について述べておきます。どうも「神の国」誌の発行人も編集人も、これをよく理解していないのではないか。「其」という字を「その」。「又」を「また」。「私」を「わたし」と変えるのは、「表記」の変更です。ぼくの考えでは、「表記」の変更については、ある程度の柔軟性はあってもよいと思います。表記の変更だけであれば、真弓さんのいう原文のリズムや「言霊」も崩れることはないからです。しかし、「初発」を「はじめ」と書き直すのは、表記の変更ではなく、「表現」の変更です。これは、絶対にやってはならないことなのです。
真弓 しかし、表記を変更する場合でも、具体的にそういう方針を明記することが必要ですよね。
武田 そうですね。いわゆる「凡例」です。たとえば、『三鏡』を八幡書店で出版する際には、文献の性質から、表記に関しては『霊界物語』ほど峻厳には考えなくてのよいだろう、むしろ読みやすさを優先するという方針で、「旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める」「漢字語のうち代名詞・副詞・接続詞などは適宜平仮名におきかえる」「原文にはほとんど段落がないが、適宜、段落を設け改行を施す」という方針で編集しました。そしてこの方針を凡例として最後のほうに掲げておきました。表記の変更は文献の性質および時処位において許されますが、それでも凡例、方針は明記しなければならない、ということです。
五郎 そういう当たり前のルールを理解できない人が、機関誌を編集し、発行しているという事態を変えていかないとダメですよね。
武田 「王仁言霊」の問題はさておいても、巻頭に連載の『霊界物語』ですが、これ現代仮名づかいになっています。つまり「表記の変更」を行っているわけですが、そのことがどこにも明記されていないでしょう。
真弓 そもそも、物語に関しては現代仮名遣いに置き換える必要性なんてあるのでしょうか?
武田 「表現」の問題ではなく、「表記」の問題ですから、原則的にはそれもひとつの選択肢ではありますが、どうも読んでいてしっくりきませんでしょう。実は『霊界物語』については、安易に現代仮名づかいという方針でやっていきますと、絶対に齟齬が生じるのです。まあ、ともかくあとさきのことや全体を考えずに、思いつきでいろんなことやる人たちですので、いつ気がつくのか、気がつかないのか楽しみにしているのです。
旧仮名が読みにくいという方はたしかにおらるのかもしれませんが、じゃあ、祝詞はどうするのか、神言はどうなのか、それも現代仮名遣いにせよというようなことになるのか、と逆にお尋ねしたいですね。おかしいでしょう。石田先生を講師にお願いして、あれだけ熱心に祭式講習をやって、祝詞作文やって、しのびの作文まで勉強しているわけでしょう。旧仮名づかいがわからなくて、どうして祝詞が書けますか。だいたい、旧仮名づかいなんて三時間も勉強すれば、誰でもわかることです。どうせ記事もなくて、おかしな偽名でやらせ記事を書いたり、罰あたりな改竄やる暇があるのであれば、「神の国」誌にですよ、歴史的仮名づかいの解説コーナーでも作ればいいでしょうが。
「聖師の著作物の現代語訳について」とは?
真弓 10月号の45頁に「愛善苑役員会」の名前で「聖師の著作物の現代語訳について」という文章が載ってますが、これはいったいなんなのでしょう。
武田 それはですな、つまり、いま問題になっている「王仁言霊」における「抄出」だとか「集約」のことでしょう。どうやら責任役員会は、この一連の改竄、リライトを「現代語訳」と強弁するつもりのようなのです。それで責任逃れをするために、聖師の著作物は「国語力のある方や、旧仮名で勉強された方には味わい深く素晴らしい文章ですが、現在の教育を受けた方にはなじめない事も手伝って敬遠されがちです。こうしたことから仮名遣いを変えてほしい、難解な単語は分かり易くしてほしい、口語調にしてほしい、などのご意見が多く、その対応を迫られていました」とあって、それを受ける形にしているのでしょう。
真弓 しかし、それにしても支離滅裂でしょう。「聖師の著作物」とあって、その下にわざわざ(『霊界物語』をのぞく)とあるじゃないですか。
武田 ああ、ほんとだ。これはおかしいですね。これだと「難解な単語は分かり易くしてほしい、口語調にしてほしい」という要望があったのは、いったいどの文献についてなんだ?
真弓 だって、物語は口語体で、ほとんど言文一致じゃないですか。現代語訳をする必然性は、ないでしょう。
武田 いや、ぼくが推理するに、本文ではなしに、緒言とか序文に多少、文語調というか固い表現のところがありますでしょう。現にかれらは、それを改竄しているので、それを称して現代語訳ということで強弁しようとしているのかと……
真弓 それは強弁できませんよ。『三鏡』もはじめから口語体の現代語そのものでしょう。それをわざわざ書き換えているわけですから、言い訳はさせませんよ。
武田 そうしますと、論理的に残るのは、明治期の『道の栞』とかですか。11月号の『道の栞』も多少は書き換えられてはおりますが、『霊界物語』とか『水鏡』ほどは大胆なことはやってませんよ。可愛いものです。
真弓 まあ、あの人たちが支離滅裂なのは昔からですから、五郎さん、総代会で、これいったい聖師さまのどの文献について、どれくらいそういう意見があったのか、追究してくださいな。
五郎 そうだね。しかも、これには「『神の国』誌の『霊界物語』については従来通りとする(一切、手を加えない)」とありますから、ますます何が言いたいのか、何をしたいのか、何を正当化したいのか、よくわからない。
武田 これはたぶん、かれらの頭のなかでは、「王仁言霊」ではなく、巻頭でずっと連載している『霊界物語』を指しているのでしょう。しかし、うちの団体の責任役員会というのは、整合性のある文章ひとつまともに書けないのですかねえ。もう、頭が痛くなってきた。
真弓 いずれにせよ、「難解な単語は分かり易くしてほしい、口語調にしてほしい」という要望が、一人や二人からではなく、「多数」寄せられたとありますからね。多数というからには、数十人からそういう意見が寄せられたということになりますが、本当でしょうか。
武田 かりにそういう声が多数あったとしても、では、現代語訳には反対という声はどうしてくれるのか、ということもあります。当然、異論もある問題を、責任役員会でいとも簡単に決めてしまうということ自体も問題でしょうな。
真弓 それに「正規に文章を引用する場合は現代語訳を使用しない」とありますが、こんなことあたりまえのことじゃないですか。なぜ、あたりまえのことをわざわざ書くのか、なにかまだ「王仁言霊」以外にも問題があったのでしょうか?
四十七巻で尻尾をあわらした理由
武田 まあ、あの人たちのことですから、何が出てくるのか、あまりにも想定外のことが多いので。わかりませんよ。「王仁言霊」を遡ってチェックしていきますと、もうこれは最初の頃から、行われていたようですが、誰も、まさか聖師様の文章を勝手に書き換えたり、ズタズタにするというようなことは思いもよらないので、なんかおかしいなと思うことはあっても、誰もいちいち照合なんかしないので気がつかなったのです。ところが、ついに彼らは47巻の総説に手をつけた。これは大事なところですから、さすがに気がつく人が出てきた。しかも肝心の「心に三を念じ、口に一をいうことはならないのであります」という文章が削除されているから、これはもう丸わかりです。それで、中野楊子さんがわざわざ青年会の「ジェネレイト3」にやってきて、この改竄問題を指摘した。それがきっかけで馬脚をあらわしたわけです。
真弓 物語にありますが、凶党霊というのは必ず尻尾をあらわしますね。それが47巻で尻尾をあらわしたということは、これは神様が、あえて彼らにやらしたのでしょう。
武田 しかし、ぼくが不思議でならんのは、47巻というのが大切だということ、「心に三を念じ、口に一をいうことはならないのであります」という箇所が神号問題に決着をつける決め手になったというようなことは、愛善苑にかかわるようになってから、耳にタコが出来るぐらい聞かされてきたわけです。出口和明さんの講座や講演を聴いておれば、何度も何度も繰り返し、このことについて説明しているわけです。いったい、この改竄やった人はそのことを知らなかったのか、というのが素朴な疑問なんです。
真弓 この事件の底流に流れているのは、和明先生の存在を消してゆくということです。武田さんが指摘するように、和明先生の講座をちゃんと聞いておればですよ、47巻に対してどれだけ、先生の思いがあり、私たちの思いがあるかということは、誰でもわかりますよ。しかし、この改竄をやった方、出口昭弘さんか金子さんかしりませんが、そんなのまともに読んでないし、和明先生のお話、まともに聞いていなかったのと違いますか。禮子さんにはしゃべらせるなと言って、本部講師を解任したという話も聞こえてきます。和明封じというのが、どれだけ愛善苑をおかしくしてきたか。塩見さんがですよ、「わしは和明さんのために毎日汗水ながして稼いでおるんや」とあちらこちらで言っていた、そういう話をわたしは何人もの方から聞きました。このような言動がいかに大勢をまどわしてきたか、もし正当な言い分なら大勢の前で堂々と言うべきでしょう。
武田 愛善苑には系統的な教学というものは、まだ形成されておりません。従って、ある程度の幅やゆらぎはあってもいいと思いますし、そこがまたいいところだと思うのです。しかし、原点だけはゆるがせにできない。出口和明が思想的リーダーとして主導し、みんなで合議のうえ、神素盞嗚大神というご神号を主体的に選択したというこの一点だけは、絶対にゆるがせにはできません。そして神素盞嗚大神というご神号を主体的に選択したということは、聖師の真のご神格を明らかにするとともに、スサノオにまつわるさまざまな神話的イメージ、スサノオという言語記号の潜在的な意味というものをふくめて、この教団のアイデンティティがあるということです。
真弓 それが理解できない、つまり瑞霊を封じ込めたいので、和明先生がご昇天になったらすぐに「いづのめ」と言い出したでしょう。それがうまくいかなかったので、今度は聖師さまの著作をズタズタにしはじめたわけです。
五郎 それと同時に、安倍君の公開質問状にもあったですが、山野大道とか神戸綾太郎だとか、実在が疑われる人物の投稿を装った記事で、霊界物語を読んでいる人よりも、読んでない人に立派な人が多いというようなことを言いはじめている。
武田 改竄問題をきっかけに『神の国』誌を読みかえしますと、だいぶ前から現在の執行部は波状的に『霊界物語』の信奉者に対する攻撃をさりげなく繰り返していることがわかります。
たとえば、2004年3月号の「節分大祭立春座談会要旨」という記事があります。そのなかで「別の声」という人が「物語は一部の高年齢層に読まれていて、どこでも読まれているわけではありません。物語拝読のさかんなとこほど、次世代が育っていない現実は何なのか、自己満足に陥らず、よく調査する必要がありはしないか」と語り、それを受けて「次の声」という人が「物語を拝読するほど、教学論争や神格論に傾く方がいますが、それでは現実に何をするのかとなると、何もしない。つまり世間のお役に立たない人が目立ちます」
真弓 この「別の声」「次の声」というのも、わたしは「山野大道」とか「神戸綾太郎」の類だと思いますよ。
武田 そうとは断言できませんが、この座談会の司会は増田頴治さんで、有終分苑の方が多かったようですが、本当にこんなこと言う人が愛善苑にいるとは、ちょっと信じられないですね。機会があれば確認してみたいと思いますが……。うちの分苑ではみんな『霊界物語』を読んでおられますし、「白梅の会」にしても、世間のお役に立っている方ばかりですわな。活動もうちの分苑はなかなか活発でしょう。むしろ世間の役に立ってない、なにも活動していないのは、『霊界物語』を読んでない本部の方々ではないですか。
真弓 ともかく、和明先生が昇天されてから、じわじわと「霊界物語」を読む人はダメというキャンペーンをやってきてますよね。わたしもそれは気がついていたのですが、また月光が動くとですよ、それを悪宣伝してくるので様子を見るしかなかったわけですが、これはそろそろアクションを起こす時期ですね。「更生主出口王仁三郎聖師の神教である『霊界物語』を信奉し」と目的使命に明記している愛善苑の中枢部でそういうキャンペーンが陰湿に行われているということは、これはもう妖玄坊が愛善苑の乗っ取りをはじめているということですよ。
著作物の改竄は著作権法第60条違反で
罰金最高500万円!
武田 ちょっとシビアな話になります。ぼくは「表現」の変更は絶対にダメだと言いましたが、これはある限度を超えますと、犯罪の構成要件を満たすことにもなる。
そもそも著作物とは、それを創作した人の全人格を表したものとも言うことができ、著作物がどのように利用されるかは、たんに経済上の問題にとどまらず、著作者の人格的な問題にもかかわってきます。そこで著作権法では「著作者人格権」として次の三つを定めています。ひとつは「公表権」。これは、著作物を公表するかしないか、公表するとすればどのように公表するかを決めることができる権利。次が「氏名表示権」。著作物に氏名を表示するかしないか、表示する場合に本名を表示するかペンネームを表示するかを決めることができる権利。そしてもっとも重要なのが「同一性保持権」というもので、著作権法第20条に「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする」と明記されています。ひらたく申しますと、「著作物の改変、変更、切除などを認めない権利」ですね。
真弓 「神の国」誌がやっておることは、まさに聖師の著作の「改変、変更、切除」じゃないですか。発行人の金子さん、編集人の昭弘さんはれっきとした違法行為を犯しているわね。
武田 そうですよ。違法行為というか犯罪ですわな。ただし、問題はその権利者である聖師さまがおられない、ということです。第五十九条に「著作者人格権の一身専属性」として「著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない」とあり、この狭義の著作者人格権そのものは一代かぎりで消滅するのです。
真弓 しかし、著作権者が死んでしまえば、勝手に改竄してもいい、ということにはならないでしょう。
武田 その通りです。法的にもアウトです。著作権法第60条に「著作者が存しなくなつた後における人格的利益の保護」として、こういう規定があるのです。「著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない」。この条文は、著作者の人格的利益は永久に保証されなければならないという趣旨なのです。かれらは最後の但し書きにすがるかもしれませんが、ここまで改竄していますと完全にアウトだと思いますよ。大本本部のように、差別用語を変えただけならば、「社会的事情の変動」で抗弁できると思いますし、まあ「大本」のルビぐらいは、法的には「行為の性質及び程度」が軽微と判断されるでしょうしね。情けない話ですが、わが『神の国』誌の改竄にくらべたら、可愛いものです。
真弓 聖師さまの著作権そのものは没後50年で消滅していますが……
武田 著作権法の構成として、著作権と著作者人格権はべつの権利なのです。著作権は無体財産権といいますか、財産的な利益を保護するもので、著作者人格権は人格的な利益を保護するためのものです。従って、著作権の消滅と著作者人格権は関係ないのです。ですから、著作権が消滅した著作物は誰でも自由に頒布できますが、その著作物の中身を改変・変更・切除してはならないわけです。これは文化遺産としての著作物を守るという意味で、当然の規定でしょう。
真弓 そうしますと、どうしてもかれらが反省せずに、改竄を続けるという場合には、法的にやめさせる方法があるのですか。
武田 あります。第116条に「著作者の死後における人格的利益の保護のための措置」として、民事的にかなり厳しい差止め請求できる規定がありますが、その権利があるのは「孫」までと定められています。つまり、出口直美さま、出口雅子さん、出口京太郎さんの三人のうちのどなたか一人でも、これはヤバイと思えば、差止め請求して、改竄行為の防止と改竄が行われた「神の国」誌の廃棄を求めることができます。
真弓 われわれだけでは、どうしようもない……
武田 ところがでんな、おっとどっこいでもっと怖い条文がありますのや。いま言うたのは民事の規定ですが、刑事罰というもんがあるわけです。第120条に「第60条又は第101条の3の規定に違反した者は、500万円以下の罰金に処する」とあるわけです。ですから、総代会での対応如何では、京都地検に告発するという選択肢はあります。まあ、これまで、著作物の改竄というような馬鹿なことをした事例はおそらくないでしょう。ふつうの出版社で、たとえばわざわざ夏目漱石を改竄する、森鴎外を改竄する、宮沢賢治を改竄する、手間隙かけてそんな馬鹿なことをするメリットはなにもありませんから、たぶんこの罰則が適用された事件はないのではないかと思いますが……。
真弓 わたしたちは「聖師の著作は一字一句変えてはならない」と教えられてきました。これは法的には当然のことなんですね。だけど浅野和三郎が、物語第一巻を書き換えた、そういう苦い経験を踏まえて、「一字一句変えてはならない」という聖師派の信仰箇条が生まれ、伝承されてきたのだと思います。そういう意味では物語は受難の書です。つねに瑞霊封じをしようという動きがある。夏目漱石や森鴎外を改竄してもメリットのある人はいませんが、聖師の著作物をズタズタにしたい人たちがつねにいる、ということです。これはよく肝に銘じておかねばなりません。
武田 ちゃんと『霊界物語』を読んでいれば、40巻の緒言にこう書いてあります。「『霊界物語』そのものは約り瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である」。これは、凄く印象的な言葉です。これを読んでおればですね、物語を勝手に書き換えるというようなことは、まちがっても出来ないわけですよ。物語を切り刻むことは、瑞霊の肉身、霊魂、表現を切り刻むことですからね。信仰者であれば、罰金500万円よりも、これのほうが怖いというのがまっとうな感覚ですよ。あっちの世界で聖師にあわせる顔があるのかということですよ。だけども、それが通じない。
真弓 それで思い出したのですが、第15巻18章の「婆々勇」に黒姫のせりふで、「変性女子の霊や肉体をちりじりばらばらにして……」とありますでしょう。かれらのやっていることはまさにこれですよ。
武田 これ検察が立件すれば帰趨の如何にかかわらず、新聞には前代未聞の珍事件として報道されるでしょうし、『ジュリスト』などの法律雑誌でも特集されるでしょう。まあ、悪く言われてよくなる仕組みで、霊界物語を読んでみよう、と愛善苑に関心を持つ人が出てくるかもしれませんが……。
真弓 これはもう、罰則が実際に適用されようがされまいが、法律を犯しているのであれば、現在の代表役員、 事務局長、現執行部とそれに連なる方々は総退陣して頂き、全信徒大会でも開催して再建策を衆議にはかる以外にないですね。
武田 そうですね、これここまできたら、もうすべてを刷新した体制で再出発する以外にないでしょう。機関誌もいったん休刊にしてしまえばいい。
求められる信仰的良心の回復
外野 あのですね、ぼくはどうも愛善苑の信者さんの体質としてですね、事の理非曲直よりも、なあ、なあというか、なるべく内輪の恥を晒さずという人たちが多いと思うのです。ですから、今回も、まあ、代表役員も編集長も、事務局も一生懸命やってるんだし、いいじゃないか、で終わるような気もするのです。ですので、あまり月光が厳しく執行部を追究すると、逆に反撥が月光に向けられるのでは、ということもあるのでは、と思うのです。
武田 そういう体質というのは、ぼくらは嫌というほどの目にあってきましたから、よくわかっています。ですから本部とはまったく無関係に、出口和明の切り開いた海外宣教を受け継ぐかたちで、分苑として目崎さんはイタリア、インドと海外宣教を継続し、ミャンマーに小学校を建てたり、あるいは物語研修会を開催したり、独立独歩の活動に専念して、本部の問題は放置しておいたわけです。しかし、ここまで事態が深刻になるとですよ、これはもう安易に放置はできませんわな。
真弓 これを放置しておくことは信仰姿勢を問われます。わたしたちは微力ながら、やるべきことは教えにもとづき、やってきましたから、誰にもうしろ指されることはありませんよ。「ジェネレイト感想」を見ると、この事務局いうのがどなたか知りませんが、青年をつかまえて説教されてますが、本部に対して言いたいのは、あなた方は聖師の教えを広めるために、一つの分苑が自前でやってきたこと以上のことを、なにかやってこられましたか、ということですね。
外野 まあ、物語の改竄、物語読者に対する誹謗、天の間、地の間、ご神前から聖師の扁額を撤去し、和明先生のインド宣教の記念品である象の置物を神前から撤去したこと、なぜか総代会をご神前で開かなくなったこと、基本講座の受講者の激減……そんなところですか。はい。
真弓 現状の愛善苑は、すでに物語からいえば「高姫と妖幻坊」の支配するウラナイ教の状態であり、大本ウラナイ教とまったく同じレベルになっています。言い換えれば「反瑞霊」であり、救世の神のご活動を封じ込めようとする「悪霊・凶党霊」の割拠する状態です。
愛善苑は、聖師による最終的な型の経綸の場です。それがこういう状態になってしまったのは、なぜか、そこをよく考えねばなりません。いちばん大切なことは、信仰的良心の回復ではないでしょうか。ごまかしや虚偽、教典、准教典の改竄、青年の活動への批判記事などに、真摯に対応するだけの組織としての良心と弾力性を取り戻さねばなりません。それができれば、愛善苑は大きな力を発揮できるでしょう。もしこの事態に対応できない、またこれまでのような嘘やごまかしが続くとすれば、まさに「妖幻坊」のもとに逼塞する小さな集まりでしかない、ということになってしまいます。
愛善苑を、その素晴らしい目的使命にそって活発な活動を展開し、かつ67巻の神仏無量寿経に述べられた、瑞霊去りしき後は「相教誨せよ」というご遺言を実践できる、よりよい組織へと更生させなければなりません。そのためには規則・会則の見直しが必要です。現行の規則会則は、あまりにも代表役員の権限が強すぎます。そのために、一人で何でもできるようになってしまっているうえに、現在の代表役員の在任が長すぎることが諸問題の原因になっているとの見方を否定できません。
わたしたちは、二度とこういう事態を招かないためにも、また全員参加型の教団運営による再出発を目指して、民主的選挙による責任役員の選出、代表役員その他役職者に対するリコール制度、分苑代表としての総代の公平な選出規定を盛り込んだ規則・会則の改正案を提案します。詳細は同封の「愛善苑再生のために 規則・会則改正案」をご覧ください。
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月光分苑とは
月光分苑成立の背景
1 いづとみづ
2 愛善苑の成立
3 事務局事件
4 違法総代会と
裏切られた改革
5 迷走する金子体制と
霊界物語改竄事件
6 金子体制の崩壊と
改革執行部の成立
愛善苑改造綱案
愛善苑運営の民主化を求めて
宗教法人愛善苑規則改正案
愛善苑会則改正案
追加会則案及び条例・細則案
<資料>
裏切られた改革
(平成8年-平成10年)
皆さんと考えたい愛善苑の立て直し (平成9年11月)
違法総代会直後の目崎真弓所感(平成9年12月)
「神の国」誌における霊界物語改竄事件
座談会(2006年11月)
改竄の実例
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