宗教法人愛善苑機関誌『神の国』2012年7月号に掲載の「出口汪さんのメール文」に関して
2012年7月28日
佐藤 隆
本稿に至る経緯を簡単に述べておく。
発端は『神の国』誌2012年6月号に掲載された出口汪氏の「父 和明の思い出」という一文である。その文中に父和明の没後のわたし(佐藤隆)の動きに触れた箇所があった。その内容は、わたしが、父の遺産分割に関して、恒とあかねに一方的に有利な提案をなし、汪兄を欺こうとしたと誤解されかねないものだったので、これに対する反論として、わたしは「出口汪 <父 和明の思い出に対する所感」という一文を『神の国』誌に投稿し、それは同誌7月号に掲載された。
ところが同じ号にこれに対する反論として「出口汪さんのメール文」という一文が編集部の判断によって掲載された。本稿はこれに対するわたしの批評および所感である。
ただし、『神の国』誌はこれ以上、本件に関する投稿を拒否する旨を明らかにしているので、月光分苑のHPに掲載させて頂くことにした次第である。
第一章 遺産分割に関する提案へ至る経緯およびその主旨
『神の国』7月号(2012)に掲載された「出口汪さんへのメール文」(以下、『メール文』)55頁に次のような記述があります。
「父の死期が迫ったとき、(佐藤隆が)熊野館が抵当に入っているなど不動産類を調べ尽し、さらに本人が書いているように、葬式の時にいち早く乗り込んで、母や私がかってにものを持ち出せないように財産目録を作成していたのには愕然としました」
いったい愕然とするのはどちらだろう。
わたし(佐藤隆)が不動産類を調べ尽したのは、父が亡くなる以前から決めていた「相続放棄」の手続きに必要だったからである。ちなみに相続放棄に関しては地元(国分寺市)に居住し、わたしが日頃から法律相談等でお世話になっている弁護士の先生にあらかじめ相談していた。
また「葬式の時にいち早く乗り込んで…」とあるが、父の症状悪化、訃報をあかねから聞いて、武田氏とわたしが取るものもとりあえず駆けつけたのは、身内による持ち出しを阻止するためなどではまったくない。常識的に考えればわかることである。
愛善苑の事務局で早朝、通夜、葬儀等の打ち合わせのとき(当初わたしたちは熊野館に居住する健が仕切るものと思っていたが)、事務局の石原氏から「だれか出口家からひとり代表が出て、出口家の総意をまとめてくれんか。隆さん、あんた責任もってやってくれ」と言われ引き受けた。東京に住んでいるわたしには大役すぎたが、条件反射的に引き受けてしまった。
そのときわたしは50日祭までのあいだ葬祭だけでなく必要なあらゆる手続きを進め、母の負担を少しでも減らそうとはじめて考えたのである。
通夜から50日祭までの行事に関しては、愛善苑側では石原氏が仕切っていたので、話が早かった。葬祭に関しては、叔父出口昭弘氏になにごとも相談しアドバイスを受け、粛々と進めていった。
連合会の山川氏にはもっともお世話になった。山川氏の尽力により天王平に無事納骨できた。通夜から50日祭までなんとか母に恥をかかさず乗り切れたのは、山川氏の惜しみない助力のおかげである。心から感謝している。
父の死後において、最大の懸案事項は相続であった。
詳細は『神の国』7月号(2012)に掲載したわたしの『出口 汪「父 和明の思い出」に関する所感』(以下、『所感』)を参照していただきたいが、その提案に至る経緯を若干補足しておく。
補足する内容は、『所感』に書かなかった詳細、および投稿したあと思い出したことがらである。
相続に関してわたしが考えたのは、母の負担をできるだけ減らして、兄弟妹全員が今まで以上に(わたしを含め)、それぞれ応分の負担をして熊野館を支えるということであった。
今までは家計は兄。両親の身の回りの世話は健。毎年の研修会、イタリア、インド宣教などは目崎、武田氏はじめ月光分苑で支えてきたが、わたしはなにもしてこなかった。
せめて父の死後、最大の懸案事項である相続の話し合いの糸口を見出すことがわたしの役目であるとおもった。
同時に父が慈しんできた池の改修、管理、保守点検などの費用負担を継続的に負うつもりでいた。
相続に関しては前述したように、不動産関連の資料は整っていた。
相続動産に関しては、わたしは財産目録の作成が必要であると思った。
『メール文』には「母や私(汪)がかってにものを持ち出せないように財産目録を作成していたのには愕然としました」とあるが、どうやら汪兄は、武田氏とわたしがとるものもとりあえず葬儀にかけつけたことと、わたしが『所感』で「相続人全員の了承もなしに色紙一枚、かってに売却したり譲渡したりさせないための処置である」と述べたことを結びつけて曲解しているようなので、ここで一言述べておく。
父の場合には、葬儀後も多くの方々が熊野館を訪れことが予想され、事実その予想どおりになったわけだが、家族はその対応をしなければならない。しかし、健は熊野館に居住してはいたが大阪との二重生活を続けていて、不在の時も多い。
そういったなかで聖師のお作品類が紛失した場合、大騒動になり関係各位に迷惑がかかることは明らかである。
兄と妹の信頼関係が皆無である以上、相続人全員が目録によって共同責任で動産を管理することが、居住者である母と健の責任を分担することにつながるのである。
またその作業は兄とあかね夫妻の関係を考えると、わたしが責任を持って行うしかなかった。もちろんそれらの作業はあとで誤解やトラブルにならないように、相続人全員の了承を得て行った。
今の猜疑心丸出しの冷え切った空気とは違い、相続人全員が必要に迫られ表面的には協力的だったのである。
目録の作成にあたっては武田氏に協力を依頼したが、武田氏は難色をしめした。
「そらまあ必要なことはわかるけど、あの部屋にはクーラーないやんけ。暑いし、また今度でええがな」
そんななかで恒も積極的に武田氏を説き伏せ、猛暑のなか作業を行った。
さらに、香典返しの名簿も作成しなければならなかった。これに関しては、恒の類まれなる才能を発見した。細かすぎるほど細かい実務能力は抜群だった。
次に不動産に関しては『所感』で書いた通りの経緯で間違いないが、若干補足させていただく。
わたしの主旨は母の税負担を極力減らし、同時に母の死後の相続負担をできるだけ減らす内容のものだった。(『所感』にも書いたが、母の死後まで考えて提案を作成したのは、ひとえに兄妹間の会話ひとつかわさない険悪な関係があったからである。相続放棄する自分だからこそ、あえてその時にのみ成しえる提案だったのである)。
そのため母の法廷相続分を減らし、わたしを除く4人の相続分を膨らます内容だった。
とりあえずおおまかな提案を『所感』の通り作成したが、この最初の提案を汪兄は簡単には受け入れないだろうと思った。
ところが案に相違して汪兄は『メール文』にも「私は当初から一切の財産を放棄すると宣言していました。この発言を聞いている人は多くいるはずです」とある通り、相続放棄を繰り返し主張した。最初の話し合いではおおむね好感触だと思ったが、それは汪兄のたてまえで、汪兄の主張はつまるところ、およそこのようなものではないかと理解するに至った。それは、
「自分(汪)は相続放棄するから、恒もあかねも放棄しろ。熊野館は健が相続するのが当然」
というものだった。
同時に記念館構想についても熱く語った。
「記念館は大本、連合会、愛善苑の垣根を越えた出口家の記念館だ。館長は健だ」「私なら紅さんと直接話しができる」
ビデオについても言及していた。
「ビデオに父の真意が語られている。今は公開できないが、公開できない理由は隆が驚く内容で、観ればわかるだろう。特別に隆にだけ見せても良いが、ただし口外しないように」
私は相続人全員の信任を得て、中立の立場を約束していた。
おそらく兄はビデオを見れば父の真意がわかり、あくまで隆本人の自主的な意思として、恒とあかねに相続放棄の説得をするだろうと考えたのかもしれないが、相続人全員に公開されないビデオの証言を根拠として提案を変えることができないのは自明のことだった。
父の遺言が正式なものとして残されていたら、わたしたちは遺言に従うしかない。遺留分の減殺請求はできるが、それは相続人が個別に判断する問題で、わたしが関知する問題ではない。(記念館構想、ビデオに関してのわたしの所感は、次章であらためて言及する)。
それにしても『父 和明の思い出』『メール文』を読まれた方はお分かりだと思うが、汪兄に一切の財産を放棄するほど執着がないのであれば、他の相続人の権利にまで口をはさむのはいかがなものだろうか。
決めるのはぜんぶ家長であり、長男であり、和明の後継者である汪兄であり、汪兄が汪兄と不仲な相続人の権利にまで口を出すとすれば、『所感』でも指摘したように、結局は汪兄がすべて相続する責任があると主張しているのとおなじことではないか。もしどうしても汪兄が自分の主張を貫きたいのであれば、直接、あかね夫妻と話し合うしかないのではないか。
さらに『父 和明の思い出』には、わたしの提案内容として、あかねと恒がたんばぢを相続し、「母の死後の熊野館の相続権を恒とあかねが放棄する代わりに、私を熊野館の跡取りと認めるというものだった」とあるが、このような付帯条件をわたしが付けるわけがない。
汪兄が自分を出口家の跡取りと主張することには何の問題もなく、それと私の相続の提案とは次元の異なる話だからである。ただし熊野館跡取り問題に関しては、汪兄とわたしの考え方が根本的に異なるので、第三章で詳しく言及する。
さて熊野館での話し合いで、汪兄に対しては、あかね夫妻に自分の言いたいことをすべてひっくるめて手紙に書くように奨めた。口頭で伝えたのでは「自分はそんなことを言った覚えはない。隆が勝手に思い込んで言ってるだけだ」と言われてもいい迷惑だからである。再三奨めても、手紙を書く気はないとの一点張りだった。
また、たんばぢの土地を恒とあかねが相続することは認めないとはっきり言われたので、これ以上話しを進めても不可能だと悟った。阪急インターナショナル・ホテルでの最後の話し合いのあと、あかね夫妻には「話し合いは決裂したが、おそらく折田弁護士を通して向こうから話しがあるだろう。その際、もしも汪兄のほうがたんばぢを相続したいと言ってきたら、あんたらは熊野館を相続することを提案したらどうか。汪兄は熊野館の根抵当はすぐにでもはずせる。はずすことは問題にならないと言っている」と伝えた。
あかね夫妻も了承し、弁護士から連絡が来るのを待った。
ところで、もしわたしの主旨と提案をおおまかでも相続人全員が了承した場合は、私は国分寺の弁護士に相談して相続税の根拠となる時価を計算し、相続人それぞれの希望に沿った上で持ち分を算出してもらう予定でいた。それを参考資料として相続人全員に配布し、それをもとに双方の弁護士を通して話し合いをしてもらえればとよいなと思ったのである。財産目禄もその時までには正式なものを作っておこうと思った。それらにかかる費用はすべてわたしが負担するつもりだった。
それらの話し合いの過程で、おおむね相続人全員が納得する現実的なかたちに治まるものだと信じていた。最初の提案が跡形もなくなっても、いっこうにかまわなかった。
最終的に土地は相続人全員の共有となった。放棄するはずの汪兄の名もそこにあった。わたしは予定通り相続を放棄した。提案を受け入れられても拒否されても、放棄の実行とは関わりないからである。
私は今後出口家に関わるのはやめようと思った。汪兄のあまりに頑なな言動をみて、今後いずれ確実に起きるだろうと予想される不毛な争いには巻き込まれたくはなかった。
第二章 記念館、ビデオ
父の発病後、記念館という具体的なかたちで、父の財産の寄付の話が進行していた。
汪兄の『メール文』冒頭で、王仁三郎会館(記念館)構想の経緯に関して「隆の主張は根本に置いて間違っているのです。さらにはたんばぢを愛善苑に寄付して、そこに王仁三郎会館を建てたいと願っていたのです」
とあり、わたしが、寄付すべき対象をたんばぢではなく熊野館と事実誤認しているとある。
さて、ここで明確にしておかなければならないのは、相続人であるあかねもわたしも、記念館構想の正式な説明を、今にいたるもいっさい誰からも聞かされていないのである。
わたしたちは父が亡くなる前後、健から記念館の話を聞いた。病床の父に当時の役員が訪れ、署名押印(状況から見て、おそらく所有権移転登記などに必要な書類)を求めてきたこと。後日弁護士がビデオ持参で訪れたとき、健が寄付を阻止したとのこと。
わたしたちはつい最近になって汪氏の『父 和明の思い出』を読むまで、寄付の対象を熊野館だと思い込んでいたので、「寄付したら母や健が住むとこがなくなってまうやないか?」と尋ねたら、「いずれは健を館長にして、寄付したあとでも住めるようにすると言われとるんや」とのことだった。
ところが今回わかったことは、兄は候補地を「たんばぢ」のつもりで話し、わたしは熊野館のつもりで聞いていたということである。そこで行き違いが生じたことになるわけだが、寄付の対象が「たんばぢ」だったとすると、わたしはその場で重大な事実確認をしなければならなかったことになる。
『所感』P52中段でも触れたが、「たんばぢ」の底地の所有者は父であっても、そこには塩見氏が経営する中矢田興業株式会社を債務者とする京都銀行の根抵当権が設定されており、当中矢田興業の借地権が存在していた。そしてなにより「たんばぢ」は営業していた。その事実から「たんばぢ」が寄付の対象だとは、わたしたちのなかでは完全に想定外だったのである。
「たんばぢ」の底地が寄付の対象として定められていたとすれば、取りも直さず塩見氏が記念館設立の際に、立ち退きに同意していたことを意味する。
相続の話し合いに関して、汪兄から「塩見さんと昭弘おじさんの意見も参考にしてくれ」と言われたが、もちろんお断りした。両氏は出口家との関係のみならず信仰上の大先輩でもあるので、日常敬意をもって接するのは当然であるが、資産に関してまで相談する必要はない。
塩見氏にあいさつに行ったとき、念のためそのことに断りを入れたら「相続する人たちが思う通りやってくれ」と言われた。しかしながら父が「たんばぢ」の底地を愛善苑に寄付する際に、塩見氏が「たんばぢ」の立ち退きに同意していたとすれば、今にして思えば聞くべきことがいろいろあった。
まず立ち退きの条件である。塩見氏の立ち退きの条件などが記載された同意書(塩見氏の御家族の同意も得られていたはずである)、記念館設立の工程表(計画書)、概算の見積りなどが、総代会での承認を得るため当然用意されていたはずなので、それらの書類の確認が必要であった。
総代会で承認が得られ、すべての条件が整えば、父が亡くなったあとでも寄付はあり得ただろう。
それは塩見氏が借地権を手放すなら、相続人全員が寄付に賛成すべきだという意味ではない。寄付に賛成する相続人がたんばぢの土地を相続した上で愛善苑に寄付し、反対する相続人が熊野館を相続すれば、記念館は実現したのである。
汪兄の『父 和明の思い出』P42では、汪兄が賛成したにもかかわらず「周囲の反対で、結局は愛善苑に寄付をするという父の意思は実行されることはなかった」という。
さらに、
「父は布団から一歩も出ることができなかった。死期が刻々と近づいてきていた。私は熊野館に帰ることができない状況に置かれていた。私が帰ることで、多くの人に迷惑をかけたくなかった。電話で母や健から状況を聞き、時には指示を出したのだが、それが実行されたかどうか分からなかった。わずかな隙を見つけて、父は折田弁護士を呼び寄せたらしい。すでに字を書くことができなかった父は、ビデオで遺言を残そうとしたのだ。健が立ち会った。私は父の死後に折田弁護士からそのビデオを見せられた。見る権利があるのは、私と母と健の三人だけだった。父は口を開くのも苦しそうだった。父の悲しみが伝わってきて、思わず目頭が熱くなった。自分が遺言を残さなければならない事態になったことに対して、父は「情けない」と何度も口にした。そのビデオは今でも折田弁護士が保管しているが、今はとても公開する気にはなれない。その時が来たなら、私の判断で公開しようと思う」
とある。
『メール文』P54にも重ねて、
「国道に面した土地に建てたならば愛善苑がさらに発展することができると、私に何度も繰り返していました。このことは愛善苑内でも提案されていたと聞いていますので、ご存じの方は多いと思います。そして、私も父の夢を叶えてあげたいと思いました。父はそのことを遺言に書こうと思ったのですが、どうやら阻止されてしまったようです。後日父は隙を見て折田弁護士を呼び出し、言葉もろくにしゃべれない状況で、ビデオを作成しました。私は父の死後、折田弁護士からビデオを見せられました。それが事実かどうかは折田弁護士に確かめてもらえば分かることです」
とある。
この汪兄の『メール文』のなかで最も不可解な記述は「父はそのことを遺言に書こうと思ったのですが、どうやら阻止されてしまったようです」という部分である。
いったい誰がどのように阻止したのか。父が遺言をとりやめるほど影響力のある人物といえば、それは母と健をおいてほかならない。
では父が亡くなる直前の状況はどうだったのか。役員が熊野館に署名押印をもらいに訪れたのはいつだったのか。
父が永眠した直後の『神の国』7月号(2002)に掲載された金子忠靖代表役員(当時)の『和明先生と』によると、6月1日(土)に開催された責任役員会、総代会で、記念館設立が正式に決まることになっていたとある。ここから判断すると、役員が熊野館を訪れたのは、当然責任役員会、総代会の前と思われる。
臨時総代会が開催された6月1日、月光分苑主宰の「物語集中研修会」が代々木で開催されていた。あかね夫妻やわたしが来苑して、臨時総代会を傍聴する可能性はなかった。
当時総代だった目崎五郎氏によれば、臨時総代会で、ある総代が記念館の場所に関して質問したところ役員からの回答はなく、営利事業を目的とした「社団法人王仁三郎記念館」設立の議案のみが採決されたとのことだった。記念館設立に関して総代会は正確な事実を、いまだもって、なにも知らされていないのである。
「わずかな隙を見つけて…」「後日父は隙を見て」折田弁護士を呼び出し遺言ビデオを作成したのは、いつだったのか。『父 和明の思い出』『メール文』で繰り返し兄が強調している「隙」とは、いったいなにを意味するのか。
6月9日日曜夜、あかねは亀岡に帰郷した。11日火曜には出口三平、お遊夫妻が見舞いに訪れた。12日水曜には春日夫妻が見舞いに訪れ、その日の夜あかねは奥沢に帰宅した。
同12日夜わたしは熊野館へ行き、13日夜には山口美智子さんが庭にホタルを放している。14日には四方八洲男綾部市長が見舞いに来られた。15日土曜から親族らが続々つめかけ、汪一家も16日朝には熊野館を訪れ、昼すぎまで滞在している。
その日の午後、あかねと長男雄飛丸が亀岡に戻ってきていたが、汪兄の家族に気をつかい、駅前のミスター・ドーナツで待機していた。汪兄が帰るのを待ってあかねと雄飛丸は熊野館に戻った。17日わたしは国分寺に帰った。
18日夜あかねからの電話で父の昇天を知った。和代さん(恒の妻)とも電話で話しをした。目崎真弓さんにも連絡し、夜のうちに武田氏の車で亀岡に向かった。
さて、汪兄が「隙」とあるのは「あかねと隆の隙」を見てと解釈するのが自然である。
わたしが熊野館に滞在中、毎日のように汪兄から母あてに電話がかかってきた。あかねもわたしもとりついだ。『父 和明の思い出』の「電話で母や健から状況を聞き、時には指示を出したのだが、それが実行されたかどうかわからなかった」とあるのは、この間の状況を指すのだろう。
汪兄の母あての電話は、父が亡くなった後もわたしが熊野館滞在中、やはり毎日のようにかかってきた。
汪兄の『父 和明の思い出』によれば、病床の父は、あかねとわたしがいない隙に、すぐさま折田弁護士を呼び、健を同席させて遺言ビデオを撮ったことになる。そうするとビデオを撮ったのは、あかねが熊野館にかけつけた9日以降となる。
健は私をふくめ複数の関係者に、ビデオで遺言を撮ろうとしたとき自分はそれを阻止したと繰り返し述べていた。そのビデオの遺言はなぜか、汪兄、母、健以外に見る権利がない。公開を決めるのは汪兄の判断である。
汪兄によると、遺言が阻止され、父はしかたなくビデオで遺言したとある。そのビデオ遺言の場で、健が反対したことには触れられていない。汪兄は、健からどのような報告を受けていたのか。ビデオに健が寄付を阻止した場面は残されているのか。そもそもそのビデオは、遺言の名に値するものと言えるのか。
父が2000年秋に発病した胸部大動脈瘤の手術による入院手術退院のとき、あかねとわたしは桂病院と熊野館を往復していた。母は病院に付き添いで泊まり込んでいた。
そのとき以降わたしは節分祭と瑞霊降誕祭のとき以外亀岡には行ってないし、熊野館にも泊まっていない。あかねもわたし以上に帰郷していなかった。父の入退院、葬式など特別な事情を除けば、わたしたちが熊野館に滞在するのは年わずか数日である。
父が寄付する機会はその気になればいくらでもあった。遺言を書くこともできた。わたしたちが父を取り巻き監視していたわけではないのだ。
父は以前から自分の資産を愛善苑に寄付しようと漠然と考えていたが、実現にはいたらなかった。
父が亡くなる寸前、寄付が実現しかけたのは、汪兄が強く賛成したからである。それで役員も動いた。塩見氏も立ち退きを了承した。平野先生が書類をそろえた。予定通り役員が書類を持って熊野館を訪れた。総代会ではなにも報告できず、父の悲願であった記念館設立の夢は父が昇天する前に消えた。失意のうちに父はビデオを残した。今現在わたしが知りえる事実は以上である。父の悲願が潰えたことへの、あかね夫妻とわたしの責任は0%である。
汪兄の『父 和明の思い出』P42では、父が汪兄に寄付の相談をする場面で
「父は少し考えた後、<熊野館がなくなったら、禮子の住む場所がなくなるから、たんばぢだけを寄付しよう>と言った。私はその場で賛成した。私が責任を持って跡を継ぐけれど、健が熊野館に住んで母の面倒を見ると言っているから、財産は健に譲ればいいとも言った」
と書かれている。
一方、汪兄の『メール文』P54では
「ところが、健は職を辞するのだから、収入がなくなります。そこで、私が父にたんばぢを寄付して、熊野館は健に相続させてはどうか、と申し出たのです。その代わり、健には
母と熊野館を守ることを約束させました」
とある。
汪兄が寄付に関して当初から強く賛成していたことをわたしも認識していたが、『メール文』で、汪兄の方から寄付の候補地に「たんばぢ」を申し出たことを10年たった今、初めて知り驚いた。
健のことを考えて寄付の候補地を「たんばぢ」に決め、健にも母と熊野館を守らせることを約束させ、健の熊野館の相続を父に申し出たにも関わらず、その健が寄付に反対し阻止した。
「多くの人に迷惑をかけたくなかった」と汪兄は書いているが、父の悲願が実現しなかった責任は、どこにあるのやら。
第三章 後継者、聖地
父が亡くなる数年前のこと。わたしにとって印象深い思い出がある。あることで父にやんわり意見をしようとしたことがあった。父はわたしが本題に入る前にそれを遮るように
「お前の心はなんて醜いんだ。人を信じられないのは己の心が醜いからだ」
と言われた。
「人を疑ってはならないと言うのは、聖師様の教えですか?」
と尋ねたら即座に
「違う!わしの性分や」
と言うが早いか脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
おそらく父は、役員や信者にこのような言い方はしない。息子や娘が最後は自分を理解してくれると信じているから遠慮がないのだ。
汪兄の『父、和明の思い出』によれば、汪兄は何十年も収入のかなりの部分を親に仕送りし続けていた。経済的に家を支え続け、年に何度か旅行に連れて行ったりもした。父は二階建ての二世帯住宅に熊野館を作り直し、汪一家と暮らしたいと言い、汪兄の夫人も快く承諾してくれた。見事な設計図も出来上がったが、やがてその話しはうやむやになり、父は汪兄に対してさらに負い目を負った。
死期の迫った父は汪兄に直接電話をかけ、祭典にどうしても出席するように懇願した。
四国に住む父の弟一家にも必ず来るように声をかけ、祭典が終了した後、父は汪兄を後継者に指名した。その状況を、
「たんばぢのなおらいの席で、父は私を連れて一人一人に挨拶をさせた。私は父の計略にまんまとひっかかったと思ったが、いつかはこういう日が来ると、すでに心の中では覚悟ができていた」
と書いている。
父の死後、わたしが汪兄と会ったとき、汪兄は自分は父から後継者に指名され、多くの人がそれを目撃していると言った。わたしの反応がまったく冷やかだったので、汪兄は苛立っている様子だった。わたしには汪兄の言う後継者の意味が曖昧でよく理解できず、反応しようがなかった。
教えの後継者という意味なら、汪兄は教義も祭式も不案内である。
父は汪兄を後継者に指名することで、汪兄が後継者にふさわしく物語を真摯に研鑽し、父の著作を読み、奢ることなく教えと向き合うことを期待したのではないかと思ったが、汪兄にあまりその気はないようだった。
信者さんが汪兄をおのずから和明の後継者と感じるのは、汪兄を父が指名したからというより、父の後継者にふさわしい働きをなしたときではないだろうか。
和明の後継者を子孫が継承するという発想も愛善苑の教えにはない。
聖地について、感じること。
高熊山は聖師が修行された霊山であり、大本、連合会、愛善苑の共通の聖地だが、熊野館は憩の場であり個人の住宅である。もちろん熊野館を聖地と感じるのに異論はないが、その意味づけは個人の主観である。またその範囲も所有権などで決まるものではなく、国道に面しているかどうかも関係ない。それぞれのとらえ方であり、感じ方である。その熊野館も火災で焼失し今はない。再建もままならない。(おわり)