愛善苑 月光分苑 わたしたちは、神素盞嗚大神を祀り、出口王仁三郎聖師の「霊界物語」を神教と奉ずるグループです。 「相教誨」をモットーに、改革の精神を忘れずに活動しています。 BACK TO HOME |
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出雲参拝記・スサノオゆかりの神社をたずねて 2001年(平成13年) |
霊界物語座談会 「霊界物語の読みかた」
平成12年6月2日 国立オリンピック記念青少年センターにて 参加者 : 出口和明 出口礼子 村上雄治 佐藤隆 目崎真弓 出尾よしえ
目崎「霊界物語には十二通りの読みかたがあるとか、それぞれの身魂相応でいいんだ、などといわれていますが、あまり漠然としすぎている感じでつかみどころがないんですね。おまけに八十三冊のボリュームでしょう。気が萎えてしまいそうになりますが、実は物語ってもっと現実的で読み親しんでいるものには確かな手応えがありますね」 佐藤「そうですよ。物語はわからないとか、誰か特定の人の権威でもって解説してもらわなくては勝手に解釈するな、なんていうべきじゃないですね。物語はそんな世界じゃないと思う」 礼子「四十九巻の冒頭に霊界物語と題して三首の聖師さまの和歌がありますので読んでみます。」 「天地の神の御旨を明らかに 悟るは是の神書なりけり」 「天国や中有界や地獄道 詳細に覚る神の書かな」 「日と月を重ねて見れば此書の まことの心明らかとなる」 目崎「意味深長ですね。言霊の生きいきと息づく世界、もっと言えば聖師によって口述された言霊が力をもって働く世界のように思いますが・・・・・・」 礼子「そうなの、実はこの一月にご招待を受けて主人やみなさんとインドへ宣教に行かせていただいたんですけれど、ずっと続けていましたご神前での物語の音読がちょうど四十九巻に入って、それで帰って来て読んでいったのが関連する個所だったんです。三十九巻からハルナの都(インドのボンベー)をめざして神素盞嗚大神の宣伝使たちが出発していきますが、四十九巻は一連の活動の総括が述べられているんです。百六十九ページ(旧天声社版)まで行きますとね、こういうお歌が二首あるんです」 「愛の善信の真をば真っ向に かざして進め海の外まで」 「万有愛真の教えをどこまでも 開かにゃ止まぬ命限りは」 礼子「愛の善は天国の真相で、信の真は霊国の教えの世界これを真っ向にかざして海の外まで行けよ、ということでしょう。もう一つの万有愛も天国のありかた、真の教えはやっぱり霊国の教え、救いのみ教えですから関連した二つのお歌があって、ヒンズーの神ガネーシャを抱いて帰ってきた私たちにとっては『どこどこまでも愛善の行動と真の教えでもって進めよ』という王仁三郎聖師の力強い励ましのお歌だなあ、と思って涙がでるほど嬉しく拝読したんです。」 目崎「とてもタイムリーな拝読でタイミングまでご神意のようですね」 礼子「それで二百五ページへ行きますとね、またお歌が二首出てきます」 「大神の依さしに酬ゆる時は来ぬ エス語に英語支那語宣伝」 「嘆かいの中より亦もほほゑみぬ 海外宣伝思ひ浮かべて」 礼子「はじめのお歌のエス語は大正時代末期、パリを拠点に欧州宣教をされた西村光月さんのことで、支那語は戦前中国の紅卍会との提携で活躍された北村隆光さんのことだと思います。その時が大神の依さしに酬ゆる時だったんだなあ、と思いました。つぎの一首、嘆かいのとき、というのは当時聖師さまは第一次大本事件のあとでどんなにかお苦しみだったと思うんですが、亦も微笑む、とありますのはいったい何のことだろう?一度目は西村光月さんのことに違いないけれど、その次はいったいいつだろうと思って、歌の載っている本文の口述日付を見ましたら、大正十二年一月十八日とあるんです。本当に驚きました。」 目崎「ほんとうに一月十八日ですか?不明なことに私は何も意識していませんでした」 礼子「と言いますのはこの一月十二日にインドへ出発しまして十八日は一連のセミナーを終えた要の日だったんです。しかもこの日は旧十二月十二日で、数運でいうとミロクの日です。すっかりセミナーを終えて皆でカルカッタの空に輝く十二夜のお月さまにお礼拝し、同時にオリオン星座をも仰ぎ見たその日だった。ですから、亦も、という二度目の海外宣伝は今回のことだったのかなあと思って・・・・・・ 四十九巻の冒頭のお歌三首のうちの最後の一首 「日と月を重ねて見れば此書の まことの心明かとなる」このお示しからいくと二度目の海外宣伝はたしかに今年のインド宣教だと信じれるし、私たちの宣教はつたないものだったかもしれないけれど、聖師さまが微笑んで下さったかなあと思うととても嬉しいんです。」 目崎「大正十二年のご口述ですから七十七年前!今年インドのカルカッタで出口和明先生がジャイナ教のかたがたから聖者のショールを贈呈されたのが一月十七日、私が二回目の生け花セミナーを終えたのが一月十八日でした。驚きですね」 礼子「日と月を重ねて見なさい、そうすれば霊界物語の真実がわかるよ、と書いて下さって、しかも日付まで合わせて明示されて、もう私は七十七年まえに海外宣教の仕組みをしてあるのだよと、お歌まで残してくださっているんですね」 目崎「繰り返し読めよ 霊界物語 神秘の鍵は秘されてあり、というお歌のとおり繰り返し注意して拝読させていただきたいと思います」 礼子「ご口述当時、聖師さまは大正日日新聞社の莫大な負債(浅野和三郎の残したもの)をかかえてお一人でたいへんなお苦しみだったと思うんです。そのさなかから未来への仕組みをして行かれたんですね」 佐藤「大正十二年に関東大震災が起こるでしょう。大正十三年というのは今と状況がとても似ていてねアメリカでは空前の景気に沸いていて、日本は経済的にも不況のどん底の時なんですよ。」 礼子「負債額は今にしたら何十億だと思います。ある方にお聞きしたんですけど聖師さまも爆弾を抱えて死んでやろうかと思ったことがあったらしい、それほど大変なときに七十七年後を見とおして海外宣伝を仕組まれて、しかもそれが判るようにしてくださって・・・・・・それは聖師さまの大愛ですよね。そのかわり、どこどこまでも命かぎり、海の外まで愛善の心でもって聖師さまの教えを伝えてくれよ、とおっしゃっている。霊界物語の凄いところです」 目崎「月光世に出づ のお歌の最後のところ・・・・・・四方の国より聞こえ来る誠の神の声を聞け 霊の清水に渇く人 瑞の御魂に潤へよ・・・ですからやはり聖師の教えは、一度は海外で脚光を浴びて再上陸するのでしょうか。日本の宗教状況は荒廃していると思いますし、聖師の教えを聞く方は稀になっていますね」 佐藤「同じ日本語を話す人間同志が心を通わせにくくて意志の疎通に不自由しているのに、僕等はイタリアやインドへ行って交流できるのだから、心の方向性が問題ですね」 目崎「物語に取り組む姿勢がひとつの大事な鍵ですね。この研究ノートを読んでくださって勇気をもって、楽しんで読んでくださる、今までの読み方を改善されて積極的な人生に転換されるかたがあればありがたいですね」 佐藤「あのね、霊界物語っていうのは誰か偉い先生がいて教えを垂れて、あなたはこうしなければいけないよ、なんて言っている世界じゃないと思う。それに僕等は偉くもないしそんなことできる力もないしね。自分はこう読んでいる、くらいかな」 和明「霊界物語を教えられる人なんて誰もいないよ」 礼子「そう、さっきのこともね、初めからわかっているのではないし、現実に行って体験してみて細ぼそと拝読してから、あとでああそうだったのかとわかってくるのであってね・・・・・・なんていうのかしら、そうなってみてはじめて物語に秘められたものすごい力というものを思わされるのであって」 佐藤「そうそう、そうだと思う。体験があってこそだろうね」 和明「なんかね、ひょっと何か解らせられるというのはね、月日がからんでいるというか、この日だったから発見できたという、そういうことがけっこうあっただろう」 礼子「そうね、七十に近くなってから始めた音読だけど、それが昨年の7月イタリアへ行く前からズーッと音読の個所がピッタリ合っていくという不思議、これはなんでしょうね」 目崎「今年の節分の時もそうでしたね。インドのみなさんがこれからも交流が続けられますようにといってお土産に持たせてくださったガネーシャの像を披露して愛善苑の神前横手に飾らせていただいたのは節分の夜でした。その前日礼子さんが拝読されたのが四十九巻五章の復命でしたね。・・・・・神殿が三社建てられ中央には国治立尊、日の大神、月の大神がまつられ、左の脇には大自在天大国彦命、ならびに盤古大神塩長彦神を鎮斎し、右側には山口の神を始め、八百万の神々を鎮斎された。この祭典が済むと同時に、玉国別の眼病は全快し、顔の少しく形まで変っていたのが、以前にましてますます円満の相となり、にわかに神格が備わってきたように思われた。・・・・・・という個所、その祭典が節分の夜に行われたとあって今年の節分と合ってくるんですね。そのことを節分祭後にお話くださいましたが」 礼子「そうでしたね。はじめからそうしてやろうなんて思ってはいないの。終わってから気づかされるんです」 目崎「人より先にわかってやろうとか、何か見つけようなんていう不純な野心みたいなものがあって読むときには物語の世界は閉ざされてしまうような気がしますね」 一同「ほんとにそうだなー」 和明「ところで村上さんは聖書にも馴染んでらっしゃると思うけど、物語とくらべてどういうところが違いますか」 村上「そうですね、まず物語には笑いがあります。そしてこんなにろくでもない人がこんなに変って、向上進歩して行くという世界でしょう。そして色んな角度から人の心を描いているから、ああ今度の登場人物は自分の態度のようだと思ったりね。読みながら自分も、登場人物と共に変化していけるようなところがありますね。聖書の世界はもっと直裁に、」上からばしっと教えを下すという感じです」 佐藤「僕はそれほど真剣に聖書を読んではいないけれど、旧約聖書を読んで思ったのはいかに忠実に純粋に神を信じて従って行くかが求められていると思うの。だけど霊界物語の世界はそんなに堅苦しい世界じゃないよね。もっといい加減な連中が活躍するんですよ」 笑い・・・・・・ 村上「いい加減だったところから、何かごそっと全てが変っていくという、そこがすごいなあ」 目崎「そうね、たとえば将棋だと歩とか香車とか一兵卒だけど途中で成ると色んな動きができるでしょ、そんな感じ。それに物語の登場人物はその先々までも豊かさがあるわけですよ。ついには立派に神様のご用を果たすまでにね」 佐藤「だから、ろくでもない人生体験をしててある日コロッと変ったとしたら、まったく新しいものに入れ替わったというよりは、それまでの体験が転換したことによって全部が肥やしになっているんだというほうが正しいと思う。じゃなければそれまで生きてきたことがまったく無駄だったことになる」 目崎「そうね、それまでの体験が生きてくるような発想で生きていることそのものが祝福されていくような世界ですね」 佐藤「頭を取れ、とかいっている宗教もあるけど、洗脳されて変るような世界じゃない」 村上「そういえば近頃マスコミをにぎわした、足裏診断などでたくさんの御布施を集めていた団体ですね」 和明「今までの宗教は全部厳・いづ・の教えでしょう。厳の世界は縦の教えだけど小さい世界でしょう。喩えて言えば小川で泳ぐような世界、せいぜい筏で川降りするくらいの世界でしょう。だから厳の世界にいる限りは広い瑞の世界の展望はつかめないですよね。私たちは物語が出てきてはじめて瑞の世界で広い大きな海でのびのびと泳がしていただけるという違いがありますね。そして厳と瑞、変性男子、変性女子という発想が出口王仁三郎の独特の世界でね、それが弁証法的な発展で伊都能売の大神に広がっていくというこれはすごい世界ですよ」 村上「今物語研修会では六巻まで終わりました。一巻から瑞の御魂は出ているわけですが、そのお働きを隠されています。大道別として出てきたり、また神素盞嗚大神さまの四魂である神が、それぞれの働きによって地上を救済されようとしている。いろんな形が描かれていてこれがまた素晴らしいと思います」 佐藤「物語は自分で発見する書物だと思うね。何かの思想の裏付けになるようなものではないよね。以前に沖道ヨガの人たちとの話しで・・・・・愛善苑の人たちはどんな修行をしているんですかと、そう言われても答えようがない。肉を食べちゃいかんとか戒律みたいなものはないでしょ。一斉にこれをやるというものもない。実は修行というのは人それぞれに違うものでもあるわけでテーマもその人によってちがうでしょ。戒律でこうしてはいけない、というほうがごくわかりやすい。ジャイナ教の人は厳格な菜食主義だし、沖道の人はヨガの修行がある。僕等と発想の違う人たちへの説明がむずかしいね」 礼子「そうだわね」 目崎「私はイタリア沖道のかたたちとの交流の機会が多いので少し違うんです。厳と瑞の発想から言えば、原則を守り道徳的に自分を律して行く厳しさを忘れて神の大愛や優しさの瑞の世界をのみ救いとして強調していったらどうなるか、自己中心で勝手気ままに悪いことも平気でやって、つまり愛悪の世界ですが、愛の神だから許されるとなるとこれはたいへんなことになってしまう。大海で泳がせて頂いても沈没はまぬがれないでしょう。愛善を実践するにはその核心に厳しさがなければなりません。原則を知って自己を律していく力がなければいけない。また理想の教えを知っていても実践がなければ何の働きも為しません。沖道では常に教えを意識して実践せよと言っているのでかなり行動力はありますよ。その点愛善苑の人は少し負けるのではないかと思います。言葉の壁と交流が浅いのとでまだ相互理解が足りないと思いますが少しニュアンスのズレがあるように思うんです。彼等の言う修行の目的は自分を生かしきるということなんです。そのためには感謝、下座奉仕、愛行などをあげ、日常を漫然と生きるのではなく意識して自分を高めようということで、意識を持って生活することも修行なのです。それからいくと王仁三郎の弟子たちはどうでしょう。本当に実践できていたら生活がもっと活性化して苑全体がものすごくエネルギッシュになるのではないでしょうか。昨年から三回イタリア訪問していますが行く先々で心からの歓待を受け、私たちから何かを学ぼうという積極的な姿勢には感じるものがありました。もちろん全員とは言いませんが謙虚さ、心遣いは相当なものです」 出尾「ほんとうにそうでした」 佐藤「それはインドでも感じましたね。宗教や団体に関係なく、常に他に学ぼうとする謙虚な姿勢や思いやりをされるというのは人間的に立派で尊敬できるということですよ」 目崎「それからいづとみづの関係ですが、興味深い賛美歌に出会いまして、 二八三番の七 皇神の厳の御旨に叶ひなば御国の門は独り開かむ 三一七番の三 御恵みをたえず求むる信徒の心に宿る厳の大神 これは考えてみればごく当然のことですが、神様の御旨に叶うほど自分に厳しくなるでしょうし、直日の御魂を働かせればひとりでに天国世界が開けるでしょう。神にみ恵みを祈る心には自然に厳の大神さまが宿られる。すなわち正しい行いが出来てくるという御示しだと思うのです。そうしてはじめて瑞の大海で安全に泳ぎきることができるのではないでしょうか」 礼子「大分前になりますが、イタリアで愛善苑にはどんな戒律がありますかって聞かれて和明さんが、ことさらに戒律はないけれどいつも祝詞を奏上しています。といって天津祝詞を奏上したんです。そうしたら分ってくださった」 和明「そうだったね。あー、あの時はよく声が出た」 礼子「もう一度あの声を取り戻したいわね。会場がシーンとなったの」 目崎「そのこと、イタリアのジュゼッペさんがおっしゃってました。先生の声がすばらしかった。すごい気迫をバイブレーションという表現でしたが強烈に感じたと言ってました。それは言心行一致して神さまと真釣りあう状態だったのではないでしょうか。実はそれが彼らの行法の一つ動禅の世界だと思います。その到達点の境地を先生が祝詞奏上で見せられた、イタリアの方たちはそれだからわかったんでしょうね」 礼子「あれをしちゃいけない、これしちゃいけない、というのではなくね」 佐藤「この社会にはちゃんといろいろなルールがあるんだからまずそれを守って、目崎さんが言われたように自ら律するべきは律して一人ひとりが柱を守っていけばいい。細かい戒律をもった宗教はたくさんあるんだから、物語の世界のように発想を変えないとね」 和明「イタリアでね、数多くのレクチャーをさせてもらったけど、一番衝撃的で感動したと言われたのは、無から有が生ずると言う話ね、幽の幽から顕の顕へ展開して行くでしょう。ふつう無からは何も生まれないと思っているでしょう。だから・・・・・・」 和明「イタリア人がわざわざそばへ来て、あの時は感動した、と言ってくれました。私はね霊界物語もね、実は天祥地瑞の神々の世界、幽の幽から発して創られているんだということを意識して読んだほうがいいと思うんです。私たちが小説を書くんでも取材したりして顕の幽くらいから始まるでしょう。だけど物語は違いますね。」 目崎「先生が無から始まった物語とおっしゃってますが、先日九州ではからずも同じような発想のお話をしたんです。今年は二〇〇〇年でゼロの年だけれどゼロは無限大に等しい数だと申し上げたんです。すべての出発点でプラスとマイナスの両極へ無限大に広がっていく可能性があるわけです。ついでにゼロの発見はインドだそうです。東洋の哲学です。」 佐藤「そうゼロはインドから」 和明「僕は無から有を生ずる話に感動するなんてことに逆に驚きましたよ」 礼子「でもそんなことを分って下さるなんて素晴らしい感受性ねえ」 佐藤「ところで、物語の言霊の世界って何かベースになるものはあるの?」 和明「中村孝道とか言霊学の世界や古くからある世界のまちがいないものを活用されたんだろうね」 礼子「聖師さまはいろんなものをそのまま利用されたりもして、スエーデンボルグのなんかそのまま引用しているので物議をかもしたりしているんです。だけど聖師さまは素盞嗚大神の御働きをされて、お身魂は世界各地を遍歴されているわけだからもともとご自分のものなのね。寝ながら、イビキをかきながら辞書も参考書もなく口述されていくわけですから。もともとお腹の中にあることなのね。現代の学者にはわからない」 目崎「みろく胎蔵経と言われるゆえんですね」 村上「賢哲の言葉であっても神の言葉であっても、同時に全部聖師さまのものとなってますよね?」 礼子「まちがいない、正しいものは聖師さまがどんどんご口述で出していかれるわけだから、昔からの智慧として使えるものはみんな使っていかれたんじゃないかしら」 目崎「出尾さんは物語についていかがですか」 出尾「私はいままでただ読んでいると言う状態だったのが、少し意識が変化して面白くなって来た感じ、隆さんのおっしゃるように自分の身近な生活に引き寄せて身にしていくようなことが大切かなって・・・・・・そう思っています」 目崎「みんなで研修会もしているし」 和明「勉強会で知識をふやすんじゃなくて刺激を受けるんですよ」 村上「そうですね」 和明「刺激を受けてね、研究発表そのものよりも、よーし自分も読むぞというね、それが大事」 目崎「だいぶ時間も経ちました。そろそろ締めくくりに入りたいと思います。えー賛美歌五五一番、五五二番を抄出させていただきます]
第五五一 一、 かりそめに説きおかれたる言の葉に眼とどめて迷ふ人あり 二、 さまざまに説けども説きえぬ言の葉を聞かずして聞く人は稀なり 三、 曇りたる人の心を照らさむと厳と瑞との鏡かがやく 四、 情知らぬ春の嵐も神の里の主ある花は避けてふくらむ 五、 更生主再び下る世に会いて誠の神の教を聞くなり 第五五二 一、 常闇の夜の帳は降ろされて初めて慕う月の影かな 二、 足引の五十路の山を二つ越えて三つの神ます花園に進む 三、 一人行くも惜しくぞ思う花の山ふりかへりつつ招く友垣 四、 暁を告ぐる御殿の太鼓の音に長き眠りをさましつつゆく 五、人は皆深き闇路を渡り川清き流れに更生主一人立つ
目崎「出口王仁三郎聖師そのものでもある物語の世界に慕い寄って入って行きたい。この賛美歌のようにそこは瑞の神ます花園であり、百花爛漫の花の山であると思います。物語を語りあうお時間をいただきたいへんありがたかったと思います。先生ご夫妻や村上さん、佐藤さん、出尾さん有難うございました」
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