愛善苑 月光分苑
わたしたちは、神素盞嗚大神を祀り、出口王仁三郎聖師の「霊界物語」を神教と奉ずるグループです。 「相教誨」をモットーに、改革の精神を忘れずに活動しています。

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NEW!第10回平和と非暴力の活動国際会議

NEW!10th International Conference on Peace and Nonviolent Action

共謀罪 陰謀の実態 - スサノヲと八岐大蛇寸断の物語 -

第9回平和と非暴力の活動国際会議

9th International Conference on Peace and Nonviolent Action

2016年 新年のご挨拶

英訳『五情の戒律』
The Five Activities of the Mind

英訳『霊界物語第40巻13章 試の果実』
The Story of the Spirit World Vol. 40 Chapter 13


ハイデラバードでの世界仏教文化協会主際の会議におけるスピーチ
目崎真弓

2015年1月の月光分苑 月次祭を1月11日おこなわせていただきました。

華道(日本文化)を通じて十数年、イタリアで宣教活動を続けている目ア真弓さんの活動が、パルマの新聞で報道されました。

アヌヴィバ主催・第8回国際会議「非暴力の未来にむけて」
Seeking for a Non-violent World: Sharing New Values

英訳『霊界物語第40巻12章 心の反映』
The Story of the Spirit World Vol. 40 Chapter 12


緊急提案

震災・原発事故被災者救援のために玉井資金を全額投入せよ

論説・エッセイ・座談


座談『霊界物語の読みかた』

座談『ことたまの助くる国』

『神の国』誌掲載の「出口汪さんのメール文」に対する佐藤隆氏の反論掲載について
武田崇元

宗教法人愛善苑機関誌『神の国』2012年7月号に掲載の「出口汪さんのメール文」に関して
佐藤隆
トスカーナの女神
目崎真弓

訴訟と神話
目崎真弓

出口王仁三郎とモーツアルト

大説


『神の国』343−4号に掲載の塩津晴彦役員の妄論について
武田崇元

出雲参拝記・スサノオゆかりの神社をたずねて
松田 明

霊界物語・音読のお願い
 
目崎真弓


夏祭りの台所お手伝いを終えて
 目崎真弓

教団公職者の責任について
武田崇元

迷走する『神の国』誌
 有志緊急座談会
  

雛形としての自覚
  松田 明

愛善苑の新思想 
  インド・ウダイプルにて
  目崎真弓


月光分苑 活動の記録


2007年(平成19年)

第6回 平和と非暴力の行動、国際会議への参加

平和への創造的非暴力
 愛善苑宣伝使 目崎真弓

非暴力:強力な交渉手段
白梅の会   奥原康晴

2006年(平成18年)

インド・ジャイプールにて開催のIOU円卓会議における目崎真弓のスピーチ(日本語翻訳)

同英文

2001年(平成13年)

第六回イタリア沖道国際交流会と愛善苑海外宣伝の旅

1999年(平成11年)

イタリア訪問をふりかえって 松田明

出口和明先生イタリア宣教同行記 目崎真弓





出口和明先生イタリア宣教同行記 
目崎真弓

平成十一年七月十六日から二十六日


出口和明先生はイタリア沖道主催の第五回国際交流会の講師として昨年からお誘いを受けておられた。しかし昨年末にはお母上がご昇天され、執筆活動のご疲労なども重なって万全の体調ではないところから今回は出席を見合わせることにされた。そのことを五月末に国内の沖道関係者を通じて主催者に連絡を入れられたのだった。
この知らせにイタリアからは「先生がお出でにならなければ、どなたか先生のかわりに教えを語れる人を派遣してください」ということであったという。
先生は愛善苑の役員に「誰か派遣を」と願われた。期日が近づき、イタリア沖道ではヤヒロ・ユウジさん、アルフレッド・ダンジェロさん、ステファノ・ブリビオさんのトップクラス三人が日本へ出向き先生をお迎えするか、できなければ亀岡で三人だけでも先生との交流をしようということになっていたらしいあ。
ところが先生は六月のある時点で体調の不安を押して参加を決意され、愛善苑からの参加者を期待して役員会の返事を待たれた。役員会では誰も参加させることは出来ないので、先生ご夫妻だけで行ってほしいとのことであった。もちろん今回も愛善苑から費用は一切出ていない。過去十年にわたるイタリア宣教に愛善苑から一切渡航費用の拠出はなかったのである。
一方、私へもローマから国際交流会の案内が届いた。案内を見ると先生が筆頭講師になっておられたので当然先生はご出席されるものと思い、さっそく亀岡にお電話した。そして私も参加することをお伝えした次第である。先生のご体調を拝察して万一の場合を考え、会員の松田さんの参加をお願いしてご本人からの承諾をいただくことができた。結果としてイタリアへは先生ご夫妻と目崎、松田の四名で訪問ということになった。
かなり間際だったためチケットの都合で私はアリタリア、先生ご夫妻はジャルの直行便で別々の現地入りとなった。松田氏は一足先に海外へ出てシリアのダマスカスからウイーン経由での現地入りとなる。
ミラノマルペンサで
出口和明先生夫妻は平成十一年七月十六日JL四一九便、成田発十二時、ミラノマルペンサ着午後十七時二十分。私は同日AZ七八九便、成田発十二時二十五分、ミラノマルペンサ着午後十八時であった。予定どうりなら先生ご夫妻には私の到着を四〇分お待ち頂かねばならない。少々の出発の遅れがあったが私の機は約十一時間半でミラノに到着、途中の機内表示ではかなりの追い風であった。入国手続きに並んでいると次の到着らしい一団がやってきた。カタカタという下駄の音にふと振り向くとなんと先に到着されているはずのご夫妻が手荷物を引いて歩いて来られるではないか。入国審査前に早くも合流、さっそくご一緒に並んでいただき先にゲートを出ていただくこととなった。ゲートを出ると、そこにはイタリア沖道の会長ステファノ・ブリビオさんローマのアルフレッドさんはじめアンジェラさんなど懐かしい方々の笑顔のお迎えが待っていた。先生ご夫妻は握手と抱擁を交わす。同じ便で来られた九州沖道ヨガの清水さんらと挨拶を交わしたのち、アルフレッドさんの車で空港を後にした。夏のミラノは午後八時過ぎまで明るい。ひさびさのイタリアでお互い元気な顔をあわせられたこと、到着時間の差というハンデイがまったくなかったこと、先生ご夫妻のお元気な姿に神の篤いご加護を思わずにいられない。それに温かく迎えてくださるイタリアのメンバーに感謝。
ミラノ郊外のステファノ家で
夏のバカンスの影響で渋滞気味のハイウエイをようやく抜けてミラノ北方のメラーテへ。メラーテに近づくと緑の多い住宅地や田園風景が広がる。ステファノ家はメラーテの奥まった一角に立つ。少しの傾斜をうまく利用した三階建ての家からは遠く見晴らしがきき、日当たりもよく快適なお住まいである。こちらで国際交流会開始までの数日をステイすることになる。
ステファノ家に到着して一服していると、イタリア沖道の指導者ヤヒロ・ユウジ氏があらわれた。先生ご夫妻と再開を喜びながらにぎやかな晩餐となる。先生はイタリアでは十和田先生で通っている。以下の文中トワダ先生とさせていただく。晩餐のメンバーはトワダ先生ご夫妻ヤヒロ・ユウジ氏、ステファノ、アルフレッド、イーゴルの各氏、目崎。それに先生のお世話がかりとしてミラノからアウレッラさん、ペザロからサブリナさんが来られてステファノ夫人のエリーザさんを助けている。それにこの家の子供たちもまじってアットホームな温かさがここちよい。ヤヒロ氏と先生が日本語で語りつづけるのをじっとうれしそうにステファノ、アルフレッド両氏が聞いている。日本語は解らないけれど心と心の通うあったかい雰囲気は充分満ちているのだ。大部分の内容は先生の著作「大地の母」にまつわる体験談。ヤヒロさんの体験談、沖先生との思い出などである。
沖先生と出口王仁三郎の接点
沖道の創始者である沖正弘先生は陸軍中野学校を出て、戦時下で活動をされたことがあり、モンゴルで捕らわれ苦しい体験をされた。そのときに出口王仁三郎聖師のお言葉を励みのひとつにして耐えることが出来たと聞かされている。と、何時だったのかわからないが聖師さまと沖先生に接点があったことを知る。十三年前、沖先生がペザロの海岸で弟子達の見ている前で亡くなられた。そのことはひろく知られている。その二日前、ペザロの丘を二人で歩きながらユウジさんが聞いた沖先生のお言葉「自分は何もわかっていないということが、わかった。沖ヨガも方便だ。それがすべてでは全然ない」そして亡くなられる前日丘を下りて来られながらユウジさんに語りかけられたお言葉「これからは小さくてもいいから純粋な団体を作れ」ユウジさんはそのふたつの思い出を沖先生のご遺言とも思って活動されているに違いない。ヤヒロさんの澄んだひたむきな目と語り口は印象深く残った。今の日本人が失ってしまったものを持ちつづけるヤヒロさん、決して器用に泳ぐことをせず、自分をごまかすことも出来ない彼を誤解している人が多い。私はそう思いながら聞いていた。真夜中に近く先生夫妻は就寝。考えれば私たちは出発の朝からまる一日眠っていないのだ。その後は私が引き続きヤヒロさんのお話し相手をさせていただき、眠ったのは朝方であったように思う。
ミラノのリストランテで
翌十七日朝食の後付近へ散歩にでかける。私たち三人にアウレッラさんが付き添ってくださる。晴れ上がった空の下、イタリアの空気はカラッとさわやかで心地よい。日本の梅雨を忘れてしまう。小さな町の教会では結婚式があるらしく花婿さんが花嫁の到着を待っているところだった。聞けば、イタリアでは新郎が教会に先着して花嫁を迎えるのが慣わしとか、町の人や親戚友人らしい正装の一団がたむろして賑々しい雰囲気の中でひととき見物人の中にまじる。少し行くと大きな別荘風の邸のまわりには生垣のように葡萄が植えられ青い実をつけているのは、いかにもイタリアという感じがする。昼顔の花など、雨が少ないので花は小ぶりだけれど可憐だ。いろいろな花が野道に咲いていて楽しい散歩であった。この日は旅の疲れを休める休養日と思っていたが、アルフレッド氏がやってきてミラノへ行っているヤヒロさんからの電話で日本からの参加者とイタリアの幹部とで懇親の昼食会があるという。昼頃先生ご夫妻と迎えの車でミラノの市内へ。車はまずパドバ通りのミラノセンターへ、そしてレストランまでの運転はダビデさんからルーデイさんに交代。レストランに着くと先着のかたが私たちの到着を待っておられたようで、すぐに紹介がはじまった。日本人同士も初対面の席で、トワダ先生が出口王仁三郎の孫と紹介されると宗教関係の人間はうさんくさいという先入観からか、中には鋭い目を向ける人もあった。ヤヒロさんは異質なもの同士の出会いをセットするのが得意らしい。それぞれが新たな出会いによって自分の先入観を打ち破り、垣根をとって世界を広げ成長することをねらっているように思える。出会うのは個人と個人の個性だから、肩書きよりもその人のもつ本質が問われるものではないだろうか。一般的日本人にとって宗教のもつマイナスイメージがどれほどなのか?イタリアの地で心を通わすことができるのだろうか?早くも私たちにひとつの試練をいただいたように感じた。しかしレストランのイタリア料理はおいしかった。ついでだが別席には顔を知ったアリタリアの日本人スチュワーデスたちが食事を楽しんでいたところをみると知られたお店なのだろう。夕食はステファノ家で、夕方から私も持参したエプロンをかけアウレッラさんサブリナさんに加わって食事の支度を手伝う。先生ご夫妻には交流会のレクチャーに備えてできるだけ休養していただきたいと思う。先生はテラスのテーブルにくつろぎながらこの家の長女ラケーレに切り紙神事を教えている。著書に書かれている文字パターンを示すと見ただけで次々に仕上げていたと感心されていた。一はさみで一枚の紙を九枚に切り分け十字とヘル、ラブが出てくる切り紙は十四才の少女に新鮮な感動だったかもしれない。先生から子供たちに幾ばくかの宣教の糸口になったのではないだろうか。夜になってミラノセンターのスタッフから明日の松田さんの出迎えの件で電話が入る。先生ご夫妻の部屋は一階のステファノさんの書斎で、私は三階の子供部屋でゆっくり休ませていただく。
松田さんのミラノ入り
七月十八日、午前中先生のお伴をしてイーゴルさんの運転でメラーテ付近の日曜バザールと川辺のちょっとしたレジャースポットへ見物に出る。礼子夫人はお疲れなのか部屋で休養されることになった。郊外なのでバザールではさすがに日本人は私達だけ、アンテイーク家具、食器、陶器、絵、織物、刺繍、鉱石や原石、食べ物などいろいろな露天が並んでいる。それぞれの品物にお国柄が出ていて楽しい。先生は水晶の原石を買われた。川辺では散歩を少々、あとはリストランテへ入ってビールに生ハム、オリーブのおつまみ、コーヒーやアイスクリームのおやつでイーゴルさんとともに休憩、この日はゆっくり過ごすことが出来た。夜八時、昨夜の打ち合わせどおり沖道のスタッフのかたが車で来て下さり、松田さんを出迎えるためリナーテ空港まで同行してくださる。リナーテは国内便やヨーロッパなど比較的近距離路線の便が発着しているらしい。出迎えの人出も比較的多いように思った。ウイーンからのOS二八五便は定刻九時五分に到着、松田さんは最後のほうからリュックを背負って現れた。元気そうな姿に安心。ちょっと遅いけれどステファノ家で夕食の用意をして下さっているのでそのまま送ってもらい、エリーザさんの手作りのピザやリゾットなどで、遅い夕食をする。しばらくステファノさんイーゴルさん先生ご夫妻松田さん私などで歓談。夕食後、シリアからのお土産を持って先生の部屋を訪問し王仁三郎聖師の教えや物語のこと、愛善苑の理想や現状、宣教について、松田さんの海外体験などで深夜まで話がはずむ。先生の部屋にあてられている書斎にはシリアの国旗が飾られており興味深いものがあったが、ステファノさんとシリアの関係については聞き忘れてしまった。
ステファノ家の人たち
19日、私はエリーザさんのお誘いで朝食の買い物に同行させていただく。車で小さな町へ出る。まず行ったのは食料品店でそこのおかみさんはステファノさんの幼なじみとのこと、エリ−ザさんが私を紹介してくれ、地下のワイン蔵を見せていただくことができた。そこではフルーツを買う。つぎにパン屋へ、店にはパンを焼く匂いがあふれ焼かれたパンがつぎつぎ並べられている最中で種類も多い。イタリアでも家庭でパンを焼くことは少なくなって早朝からパン屋さんが開店しているのだ。ここでエリーーザはけっこうパンを買い込んだ。ちなみにイタリアンスタイルの朝食は濃いコーヒーやジュース、ミネラルウォーターにパン、バター、チーズ、ジャム、それに果物などで手軽にすます。イタリアのパンはおいしく先生も礼子夫人もキチンと召し上がられるので嬉しい。イタリア宣教十年目にしてようやく先生の味覚が順応されたのだろうか、心配は杞憂となって食事をお代わりされるには驚いた。とくにそれまで召し上がれなかった塩漬けのオリーブがはじめておいしいと思われたとか、いくつも召し上がられた。こうでなければ海外で体力の維持はむずかしい。神のご加護を思わずにいられない。
朝食後、散歩。先生夫妻は明日からの交流会でのレクチャーに備えて休養。ステファノ家の子供たちと沖道のスタッフのひとりサブリナさんで付近を一時間ほど散歩する。エリーザさんの頼みで松田さんはこころよく末っ子のミケーレを背に負って歩く。古いビラに添った道から修道院の道へ、起伏があり緑がいっぱいだ。修道院は丘の上なのでたいへん見晴らしがよい。私たちはここから遠くオレンジ色の屋根が点在する美しいイタリア郊外の眺めを楽しんだ。ステファノ夫妻の子供は長女ラケーレ、次女チェチリア、双子の姉妹マルゲリータとアウローラ、末っ子のミケーレの五人、ミケーレは五歳になるが先天的な障害があり一人で立ったり歩いたりができない。会話も無理だが家族みんなで愛情をそそいで一生懸命世話をしている。またイーゴルなどは抱き上げたりブランコに乗せたり、家族のようにスキンシップしているのはほんとうに心がなごむ。私も他人事のような気がせずエリーザさんが家事の最中、抱きながら寝かしつけたりしてすっかりミケーレとなじんでしまった。こんなハンデイを抱えながら一生懸命にわたしたちのお世話をしてくださるステファノさんや夫人には頭の下がる思いである。午後二時頃エリーザさんたちと抱擁してイタリア式に別れを惜しみ交流会場へ向かう。
国際交流会初日
ひとまず会場近くのホテルカブールへ入りチェックインする。近くといっても車で十五分から二十分はかかる。これまで国際交流会の際には会場に泊まりこみだったが、先生の体力を考慮して私がヤヒロさんやスタッフにホテルでの宿泊をお願いしたのだった。ホテルにはヤヒロさんご一家も部屋をとって滞在することになっていた。少しするとヤヒロさんが姿をみせ、私たち四人とステファノさんでロビーに陣取って延々三時間からのミーティングとなった。そのあと松田さんはスタッフと一緒に交流会場ビラ・カステルバルコに移動、大勢の参加者と同宿することになる。体力も気力もあり、なにより英語が話せるのはこの場合たいへん好条件であり、相互交流には心づよい。明日からは会場で先生のアシスタントに加えビデオによる記録など活躍していただくことになる。さてこの日は交流会の受け付けとオープニングの夕食会があり、夜九時ころようやくバプリオ・ダ・アッダのビラ・カステルバルコへ、ビラの入り口から門前までの道は直線だがやけに距離がある、相当広大な敷地を有しているのだろう。スタッフが待ちうける門内に車がはいり、挨拶ののち大食堂へ進む。ヤヒロ夫妻、トワダ夫妻、タチア夫人、姪のシーマさん、ステファノ、アルフレッド、ジュゼッペの各氏に私が席につくとまもなく会食が始まった。沖道の国際交流会での食事の際は当番が合掌の号令をかける。シンとしてしばし瞑想感謝。つぎに「いただきます」と一斉に唱えて会食が始まる。日本語で「いただきます」というのはさすがに沖先生時代からの精神の実践であろう、たいへん好感がもてる。ともに食事する人達みんなが家族になれるようなそんな気がする。近くのテーブルにおられた九州沖道のかたがたに挨拶をする。夕食の終わる頃、ヤヒロ夫人ロレーナさんのお母さんドロシーをさんはじめレイカ、マリなどのお子さん方が会場に到着、トワダ先生夫妻と再開の挨拶を交わす。十年来のお付き合いは親しみもひとしおで、イタリア式におたがい抱擁しあって喜びを表現している。見ていてほほえましい。会食終了後スタッフに送られ先生ご夫妻と私はホテルへ帰って就寝。
感謝と奉仕
七月二十日、先生のレクチャーの初日となる。朝十時過ぎ、実行委員長のジュゼッペさんとブロイ・ファウストさんがホテルに連絡に見える。十一時半までに会場に入り、十二時から先生に「人の心」という演題で講義をしてい欲しいとの申し出を英語から通訳して先生にお伝えし即諾いただく。時間までテラスで一服しヤヒロさんとともに会場へ、交流会の全体テーマが「感謝心と奉仕行」であったので講義は十年間の先生の交流に対する思いを伝える意味で、今年春に逝去されたタチア博士との出会いや思い出、ご逝去を悼む思いを述べられ、「太郎ボタル、次郎ボタル」「十七頭の牛」の童話から出口王仁三郎の生涯について、神の愛と奉仕で講話をしめくくった。トワダ先生のレクチャーはいつもヤヒロ・ユウジさんが通訳をつとめてくださる。広いコンフェランスルームは同時通訳の設備が不調で調整作業中のため、はじめの講義は急遽畳敷きの部屋で行われたが、大勢の聴衆が熱心に聴講される。中にはヤヒロさんのイタリア語訳から英語に直して周囲に伝えている夫人もあり、たいへんありがたく感動的であった。レクチャーは一時四十五分まで、終わってゲストルームで休憩となるが、そこへヤヒロさんをはじめ日本から参加の広瀬さん、ステファノさんなどが訪れひととき歓談。広瀬さんは年配のかただが霊的な話、信仰の話は初めてとのことで、先生から著書「霊界の最高機密」をもらって読み始めており、ここイタリアで先生にいろいろと質問されているようだった。ところでこの沖道の国際交流会であるが、日によって出入りはあるものの四百五十人から五百人くらいの参加者があり広い会場に分散して分科会式に研修交流しているが、食事どきは全員が集まってきていっしょにいただく。昼食は二時過ぎからだったがとにかく賑やかで、楽しい雰囲気だ。マンジャーレ、カンターテ、アモーレ、食べて歌って愛してというイタリアの明るい楽天的国民性を反映しているとも思うが、台所で奉仕をする人、事務スタッフ、運営や設営など数えればたくさんの仕事を大勢が分かち合って大きなイベントを作り上げている。共同作業のもたらすなごやかさが生き生きと伝わってくる。たとえば料理だけでも大変な量を準備せねばならない、裏方の労働はたいへんなことだと思うがやさしい雰囲気だ。そしてメイン講師はトワダ先生なのだ。ことにタチア博士が亡くなられた今年から交流会の精神的指導者は先生おひとりである。イタリアでまったく違う団体の人たちが努力を惜しまず愛善苑の教えを聞いてくださる。日本では考えられない状況である。
学びに対する熱意、純粋な真心あふれるパワーを愛善苑の人たちに感じて欲しい。
ビラ・カステルバルコ
今回の会場になったビラ・カステルバルコについて・・・・・・八十万平方メートルというとてつもない広さの敷地を有する。そこを貫いて流れるアッダ川、そのみなもとはアルプスに発する。どこでも水辺によりそって人の暮らしがある。大きな建物の周囲に庭があり、林があり、川のほとりには水車もある、アッダ川の水を利用しているのか敷地内に広大な畑地を有している。畑は道路に面しているのでビラの入り口から門までの両側に延々と畑が続いているのだ。どのような人がこれを領有したのか知らない。おそらく畑の収入だけでビラを維持するのは大変なのだろう、施設貸し出しの営業はほぼ八十年前からとか、ちなみにこの地は谷あいを下る川の流れが速く、水は清冽であり古代から宗教施設のあったところだという。初めての建物は約二百年前に建てら、れその後増築されて百年ほど前に今のような全貌になったと、ジュゼッペさんの説明であった。さて午後三時半すぎ、休憩で先生はお昼寝タイムをもらう。ゲストルームで休まれているところへジョン・ハルショフ氏がやってきて先生に指圧をしてくださるとのこと、しばらくお世話になる。私と夫人は傍で休みながら見守る。会場で行われる分科会にも関心はあるがなかなか見に行くゆとりがない。しかし沖道のヒューマンプロジェクトによる、コソボの難民支援活動の写真展示などを礼子夫人と先生と連れ立って見に行く。また会場のビラの中、庭園なども散歩してみた。とにかくスケールの大きさは日本の別荘とは比較にならない。この敷地に入る前アッダ川の流れは峡谷となって流れ、その上に橋がかかっていたが敷地内ではゆるやかだがやはり谷になっており風景は立体的で美しい。美しいけれど川まで来ると人影が少なくさびしい感じだった。礼子夫人と散歩して部屋へ戻る。夕食は今日もご馳走においしいワインで乾杯、こんなに楽しくていいのかと思ってしまう。明日の先生のレクチャーのテーマは「菩薩道」と決まる。夕食後スタッフに送られてホテルへ。
宣教と菩薩道
二十一日、今日のレクチャーは十二時開始とのことだが、朝食をしながら先生が「菩薩道」とは何か、私にたずねられる。礼子夫人と私が知っていることを話す。三人で講話についてミーテイングとなる。ところで、ホテル・カブールの朝食は庭に面した一階のテラスでいただく。滞在中ずっと上天気だったが朝日で明るいホテルの芝生や庭木、咲き乱れる花たちや小鳥のさえずりが愛らしい。ここは天国浄土の環境と言える。先生ご夫妻とゆっくりいただく朝食はリラックスできる貴重な時間だった。部屋にもどっていると、ジョンさんから電話でホテルからの出発時間を聞いてきた、「先生にお聞きして返事をします。」とこたえると「いや、先生に電話したら、私は知らないから目崎に聞いてくれ、とのことだった」とジョンさん。しかたがないので十時半出発として会場へ。会場では先生との接触を期待していらっしゃる方も多いので、早く会場に行ければそれだけ交流の成果も上がるだろうと思われる。問題は先生の体力との兼ね合いである。幸いお食事が進まれることと、ホテルで気がねなく睡眠されることで体力はなんとか大丈夫のようだ。レクチャーではロウソクをたとえにして、奉仕について述べられた。ロウソクはわが身を焦がして神前のあかりとなり人々を照らしてくれるが、それだけでなくその火を別のロウソクにつぎつぎ点火することも出来る。そのように真心の無私の奉仕行こそが世界を明るくする力であり、沖道で実践する菩薩道ではないだろうか。出口王仁三郎の行動も菩薩道そのものであったと、いくつかのエピソードを紹介。内容はたいへん好感をもって理解されたようであった。講話の中で沖道ヨガの瞑想に類する愛善苑の行法の紹介として、先生の命で目崎が基本宣伝歌を奏上し、参加者に説明して鎮魂実修をさせてもらったがこれも異文化体験として新鮮であったらしく好評で、中には強いバイブレーションを感じたと感想を伝えてくださるかたもあった。レクチャー後二人の女性がそばにこられて、もう一度歌ってくれという、外で歌うと、それをカセットに録音されていた。そしてインドのカルカッタの女性がやはり基本宣伝歌がとても心に響いたので、私との対話の時間がほしいとのこと、先生のアシスタントという役割もあるので時間をとれるかどうかわからない。ところで、この講話のはじめ、先生の紹介のときに、宗教者であると紹介されたことから、アルバニアとマケドニアから参加の二人の男性が決然と席を立ってコンフェランスルームから出て行ったという。ヤヒロさんによれば、宗教や神に対する拒否反応だという。今まさにユーゴの中、コソボでは民族や宗教を異にする人たちが血を流し合ったばかり。長年の葛藤が民族紛争として火をふき、渦中で苦しんでいる同胞がいるのだ。宗教家の話なんて聞けない、拒否反応はむしろ当然ではないか。なぜ民族の違い、宗教の違いが憎しみ合う原因になるのか?怒りや憎しみが心の扉を閉ざす。越えがたい垣根がさらに高く人と人を隔ててしまう、悪循環だ。出口王仁三郎の弟子を自認するものは、その垣根をとりはらう使命を負わされているのだから、きれいごとや口先だけではなく、身をもって愛の実践をせねばならない、その意味で現実認識から出発する以外にはないのだと思う。愛善に生きることは実はたいへん厳しい道である。
インドからの招待
この日、インドのプラデイープさんとナリニさんが先生に挨拶にみえる。ゲストルームで記念写真を撮った。プラデイープさんとは十年前ご夫妻がはじめてミラノのサマーキャンプに参加され、レクチャーを行ったときからのお付き合いになるとのことである。プラデイープ氏いわく、初めてお話を聞いたときから私は先生から学び続けています。今もそうです。と師弟の関係であるかのようにおっしゃられる。謙遜されながらも真剣に敬意を払っておられる態度に私もも感銘を受ける。そしてお二人がぜひインドへレクチャーに来て欲しいとおっしゃられるのを通訳させていただいた。またご夫妻は午後から同じゲストルームでタチア博士のご逝去について夫人に心からのお悔やみの気持ちをお伝えすることができた。五時からアルフレッドさんステファノさんらによるヒューマンプロジェクトの話があり、コンフェランスルームで拝聴した。七時半からはユウジさんのプレゼンテーションがあり、同じ会場で先生夫妻松田さんとともに拝聴。ユウジさんはイタリア語で講話、日本語の通訳は西村氏であった。関係者の紹介があり、池田和博氏、佐藤氏、タチア夫人が登壇された。このとき私の近くに座ったインドの女性ナリニさんにメモを書いてそっと渡した。「インドにお誘いいただいた件は、きっと明日中には先生からのお返事をいたします。どうぞお待ち下さい」と書いた。先生ご夫妻におはかりすると時節かもしれないとゴーサインをいただいた。翌日、松田さんとともにお伝えすることになる。また同じ午後であったが聖師筆のみろく達磨神像の複製が暖炉の部屋の二階にかざってあるのを礼子夫人と見つけ先生にお知らせする。これは山口氏のご用で持参できたと聞いている。大きく迫力のある複製。
抜き打ちの生け花教室
七月二十二日、今日の全体レクチャーはヤヒロ・ユウジさんとトワダ先生による質疑応答の予定。それとは別に朝になってスタッフ側からの提案で、私に今日生け花教室をして欲しいという。突然の提案に戸惑いと不安を感じながら、使いのジョンさんにいったい道具はあるのか、花材をどうするのかと矢継ぎ早に質問。町の花屋で調達できること、スタッフが希望にそって手伝ってくださるとか、また考えればここでは道端にもいろいろ使えそうな花が咲いていることなど、なんとかできそうと判断して即日実行の段取りになってしまった。沖道では柔軟性や即応力を養うことも訓練のうちらしい、私も試練を受ける羽目になったのかと思う。しかし、発想を変えれば、自分のできることで少しでも参加の方に喜んでいただけるなら、それも私のささやかなご奉仕かもしれないと思う。ホテルへ花鋏など取りに帰り、道々車をとめてもらって花を採取、午後アドリアーノ・アンセルミさんの運転で町へ花を買いに出かけた。さえぎるもののない道々助手席から見ていると、向こうの上空から黒雲が見るみるこちらに向かって広がってくる。彼に「こんな雲だったら雨は何分後にくるの」などと聞いている間にポツポツ落ち始めアッというまに盆を反したような激しい雨になった。花屋に着いたころには町の通りを雨水が走って流れるありさまで私はアドリアーノさんにビニールをかけてもらって店に入った。あまりに唐突で激しい雨の襲来は実に劇的であった。三十分後ビラに帰ったときも雨は降り続いていた。がっしりした石造りのビラの中には雨の音もかすかにしかしない。生け花教室には三十人ほどの参加者があり、うち一人は男性だった。ともかく自分としては貧しい英語で一生懸命つとめさせていただき事無きを得たのであるが、案に相違してみなさんが喜んでくださったのはたいへん有り難かった。生け花教室のアシスタントとしてローマのラウラさんとミラノのイレーヌさんが何かと私を助けてくださった。ほんとうにありがとう。神様のご加護とはこういうことかもしれない。
十年目の雨
夕食までのひとときだっただろうか、先生ご夫妻と松田さんも同席されていたと思うがステファノ、アルフレッド、ジュッゼッペのみなさんにユウジさんが加わって、言い出す。「先生今日のこの激しい雨、これは十年前と全く同じ状況ですよ。あの日ミラノでのレクチャーの最後の日、いきなり土砂降りの雨がやってきて・・・・・・」「なにもかも全くおんなじだ」「これは清めの雨なんだ、何かがまた始まるそのしるしなんですよ」口々に言いながら興奮した様子である。私には十年前と聞いても何のことかわからない。しかし、先生夫妻は思い当たるご様子であった。十年目のイタリア宣教の実質的講義は今日で終わりだ。これからこの交流会最後の晩餐の夕べになる。しかも今回は一度は断念しながら参加を決意し、イタリアと日本、沖道とトワダ先生(愛善苑)の掛け橋はしっかりとつながっている。そして新たに目崎、松田も自発的に参加することができた。さらにインドからの招待にもお応えすることになる。新しい一歩だ。今はまだわからないけれど何かが新しく始まって動き出しているのに違いない。それにしてもイタリア人たちが興奮しながらこんなことを言うなんて、十年という歳月と心の交流はこんな形でも実感できる確かな実を結んでいることを知った。夕食後のコンサートでは、プロのマジシャンであるダビデさんのマジック、沖道の少年少女によるコーラス、インドのランジータさんのおどり、ナリニさんの歌、山田さんの舞踊、ロンドンでプロ歌手として活動しているフランシーヌ・ルーチェの歌と即興の舞踊があり、フランシーヌの美しい澄んだ声と低音から高音まできれいに発声する力量には感銘を受けた。彼女の天性の素質だと思う。沖道ヨガは彼女にとってどのように機能しているのだろう。そのことを聞いてみたかった。みなボランテイア出演だけど、この夜は子供から大人までこころゆくまで舞台を楽しんだ。沖道ではちゃんと次代を担う子供たちの出番が作られていることもよかった。
十八頭目の牛
交流会最終日七月二十三日。ホテルで朝食ののち会場へ、朝、スタッフから今日のスケジュールの説明があり、オープニングは参加者によるインプレッション・オブ・エンカウンターである。指名された者が交流会での印象を語るのだ。一人約五分の持ち時間でトップバッターは私になったのだという。抜き打ちのやりかたはここの流儀でもあるから、いさぎよくあきらめて舞台にあがり、沖道のみなさんの奉仕の姿やじっさい参加者どうしの相互扶助が働いていることを目の当たりにし感銘をうけたことを率直に述べた。参加者のコメントのあとでフタッフ側代表として、ステファノ、アルフレッド両氏がヒューマンプロジェクトの一環としての視点で感想と抱負を述べられた。以下「今回の交流は点数をつけるならかなりポイントアップしたと思う。相互学習を十年間続けてきたが、最初の十年は入門篇です。もっとたくさんの人が協力しあってもっと学習を続けられるようにしたい。それには多くの人の協力関係が大切です。トワダ先生のお話しにあった十八頭目の牛のように、協力関係が大切なんです。つまり一頭の牛を貸す、借りるということです。みなさんこれからも交流会を続けていくために協力して下さい。ヒューマンプロジェクトも発展させたい。その意味で沖道は中核です。私たちはカンボジアへも子供を同行し、難民の生活を実際に見せました。その際子供からいろいろ質問が出ました。子供には食事が必要なのにカンボジアでは食料がないのです。衣食住が足りなければ人間らしい考えも行動もできないつらい現実があります。アルバニアに行ったときも驚きました。ある人が親類に妻を殺され憎しみが憎しみを呼んでいる、そんな状況もありました。私達のプロジェクトに関心を持ってください」という内容だった。次は沖道ヨガ・イタリア連盟の指導者ヤヒロ・ユウジさんの挨拶になる。
十年前の下駄
最終日にユウジさんは作務衣に下駄履き、コンフェランスルームに下駄の音を響かせながらの登場であった。なんで下駄なのかあえて何の説明もしないが、トワダ先生との約束を果たす男の意気を見せる、ユウジさんの男らしさだ。十年前の最初のイタリア訪問でヤヒロさんは先生のライフワークである出口王仁三郎の教えを広める協力者、いわば盟友になったのだ。目には見えない心と心のきずなが結ばれたのである。そのとき先生はユウジさんに履いていた下駄をさしあげて、自分はスリッパをはいて帰国されたのだった。文字通り「下駄をあづけておまかせします」という心だったと思う。ユウジさんはそれを不言実行してこられた十年間だった。そしてこれからもそれは続く。以下ヤヒロさんの挨拶から「十年前に私はある決心をしました。当時サマーキャンプをすることはたいへんでした。ですから国際交流は実はもっとたいへんだった。しかし十年後の今は意味がわかってきました。沖道ヨガはグローバルで国際的なものでなくてはならない。人間が人間らしくまっとうするためには心と身体、精神(こころがまえ)環境などいくつかの要素がある。沖道は心と身体、精神をつくりあげたにすぎない。国際交流会の成功への道を話し合いましょう。ヒューマンプロジェクトは広い世界の中で働こうとするもので、その働きこそ沖道を完成させることになると思う。皆さんの質問を待っています」ブッキラボウとも思えるイタリア語でのスピーチをみんなシンとして真剣に聞き入っている。そのとき、私の心の中で見えない垣根が壊れて行くのを感じていた。精神と実行力がここには生きている。心を開いて人の話しを聞くことは大切である。真実は伝わるものだから。
心に残った参加者の発言を記す「感謝心があるのは人間だけ、感謝がなければ人間でない。もしありがとうといえたら私のこころも人間関係も安定性がでてくる」ダビデさん。
「私は自分で自分の心の状態がよくわからなかった。これから意識をもって自分の心の状態や方向性を自覚し生まれかわりたい。自分を改革していきたい」若い男性。
これは愛善と愛悪の講義で愛の方向性を教えた先生の話がしっかり受取られている証でもあった。異国の地で教えが一人の心にこんなにもやさしく素直に受け入れられることに感動を覚えずにはいられない。ほんとうの教えの宣伝はこんなものではないだろうか。教えとはほんとうに人を幸福にみちびくものでなくてはならない。こういう国際交流会を開催されるヤヒロさんはじめイタリア沖道のみなさんに心からの「ありがとう」を申し上げたい。ここに参加できたことを神様に感謝、私を送り出してくれる夫や子供にも感謝。
笑顔が渦巻く大食堂
あたたかく、パワーアップした雰囲気で閉会となって最後の昼食会に移る。先生夫妻はヤヒロさんやフタッフの主要メンバーとともにテーブルにつかれ、私はロレーナさんデビイさんドロシーさんにジョンさんファウストさんなどなどが同席するテーブルに案内され、歓談しながら笑顔を交わすことができたた。松田さんはカンボジアからのサオデイ・ソックさんやマケドニアからの参加者と同席し交流を深めていた。昼食会の会場は時間とともに熱気が高まり、やがて席は外のテラスに移って、ヤヒロさんを中心にトワダ夫妻、アルフレッド、ステファノ、西村、池田、清水、中山、内山の各氏、ウクライナの武道家ポポビッチさんなど二人、松田、目崎がテーブルを囲んでミーテイングを楽しむ。このあとインドのプラデイ―プさんナリニさんとインド訪問についての交渉を開始。時期は二千年一月中旬と決めさせていただく。訪問やレクチャーについての窓口はインド側はプラデイ―プさんナリニさんのおふたり、こちらは目崎、松田と確認しあって、今回のメンバーを含め六人を予定することとした。なぜかインドの関係者はたいへんな喜びようであった。帰国早々、まず先生のプロフィル作りから着手しなければならないだろう。しだいに夕刻に近づくころ、わかれを惜しみつつ三々五々帰宅する姿が続く、スタッフは後始末のためもう一晩泊まりこみになるらしい。今夜は松田さんもホテルで泊まることにしてもらい、ツインの私の部屋には先生と松田さん、ダブルの夫妻の部屋に私と礼子夫人がやすむことにする。この日の夕食は愛善苑の四人で乾杯しホテルの食事を楽しむこととなった。日本出発から八日目である。明日はペザロへ移動し、沖先生の命日のイベントに出席の予定。
ペザロへ
七月二十四日、私は七時過ぎに起床、身支度と荷造り。先生は入浴され礼子夫人と支度されて降りてこられる。松田さんもともに四人でテラスで朝食。今日はイタリアンスタイルに加え、パイとケーキも並んでいる。無事交流会を終えた安堵感で食事も楽しくいただける。十一時過ぎホテルを出発。ステファノさんのワゴンとロレーナさん運転の乗用車で先生とヤヒロさんの一行はペザロへむかう。途中ミラノの日本料理店で昼食、夕刻ペザロ入り。西村さんや九州の方たち、インドのメンバーもすでにペザロに来ている。沖先生の忌日にはみな心を合わせて何かの行事があるのだろう。夕食は日本人グループでまとまってざるそばなどをいただく。
ペザロの浜辺で
七月二十五日、早朝まだ暗いうちに起き出して身支度をすます。先生夫妻、松田さんとジャンルイジさんのベンツにのせてもらってペザロの海岸へ、メンバーがぞくぞくと浜辺におりてすわり、静かに海にむかっておのおの瞑想を始める。ここへきて私はイベントが儀式ではなくそれぞれが心の中で沖先生を偲び、瞑想することだったと知る。夜明けまえ、薄あかりの暗さが海をおおっている。ここはアドリア海だ、この海のむこうには民族紛争にゆれるユーゴ、コソボがある。沖先生の霊界でのみ幸を祈るとともに世界の平和を祈念して、先生の先達で四人は昇り来る太陽にむかって天津祝詞と神素盞嗚大神のご神号を奏上させていただいた。太陽の方角は日本の方角でもある。こののち宣伝歌を歌ったが私の声は海風が遠く運んでいってしまうような感覚で自分の耳にはかすかにしか聞こえない。夜明けまぎわの海は夏といっても肌寒いほど涼しい。大きく赤い太陽が昇って来るのを見ながらしばらく浜辺ですごす。初めて見るアドリア海だが日本海を見て育った私には不思議なほどの親近感を感じさせる。海と浜辺の表情が似ているのだ。こうしているとイタリアであることさえ忘れてしまう永遠の空と浪うちぎわの営みである。やがてジャンルイジさんに促されまた道場へ、みなさんより一足先に送っていただき、愛善広場を見る。周囲にはプラムが実り、足元には野草がかれんな花を咲かせている。数年前愛善苑の人たちがおとずれ広場開きの祭典を行ったところである。ならされた広場に建物建設の敷地があり、土台が打ってある、来年中には建設の予定と聞いた。ジャンルイジさんの案内で周囲を見ながら道場へもどる。この日午後ミラノのホテルへむかって別れを惜しみながらステファノさんのワゴンでペザロを出発。
ミラノの夕べ
夕食はミラノのメンバーをさそって先生が中華料理をごちそうしてくださる。明日は帰国される先生ご夫妻をかこんでのおいしい中華料理だった。食事のしあげにステファノさんの注文でイタリアの焼酎グラッパで乾杯。スタッフのみなさんへのささやかなお礼の席になった。十六日からずっと先生のお世話で心遣いをされ、交流会でも接待がかりをしながら参加してこられたアウレッラさんを見ると、食事途中で疲労困憊の様子だったがそれでも笑顔を続けられているのには嘘のない真剣さを見せられた。早くお開きにしてゆっくり休養していただきたいと礼子夫人と語り合った。ホテルに引き取って休養。アウレッラさんはもう休まれただろうか。私と松田さんはホテルから歩いてほどちかいミラノ中央駅まで行ってみる。真夜中に近い時間だったがどっしりと大きな石造りの駅の建築はみごとだった。七月二十六日、先生夫妻は帰国の途につかれる。松田さんはイタリア国内やボスニア・ヘルツェゴビナを旅行しエジプトなどをまわって9月帰国予定。私は先生ご夫妻を空港でお見送りしたあと、ミラノ中央駅まで松田、服部、ルーデイの各氏に見送られて、一人でエウロスターに乗車。二十六、二十七の両日フィレンツエをまわりローマへ、ローマからミラノ経由で三十日帰国する。それぞれがイタリアを離れるまでメンバーの篤いおもてなしとお世話をいただき感謝感激のうちに時を過ごしたしだいである。また今回の滞在中にヤヒロさんの提案をいただいて、私が生け花の教室をしながら王仁三郎の教えを語らせていただき、交流を深めるために十月に再度イタリア沖道の招聘でミラノ、ローマなどを訪問する約束になった。今後も年二回程度のわりあいで継続して生け花教室をすることになる。はなはだ微力で心もとないけれど、勉強を続けながら次へバトンタッチできる日まで楽しく頑張らしていただこうと思う。目崎真弓 記

月光分苑とは

月光分苑成立の背景

 1 いづとみづ
 2 愛善苑の成立
 3 事務局事件
 4 違法総代会と
    裏切られた改革
 5 迷走する金子体制と
   霊界物語改竄事件
 6 金子体制の崩壊と
    改革執行部の成立

愛善苑改造綱案

愛善苑運営の民主化を求めて

宗教法人愛善苑規則改正案

愛善苑会則改正案

追加会則案及び条例・細則案

<資料>
裏切られた改革
(平成8年-平成10年)
皆さんと考えたい愛善苑の立て直し (平成9年11月)

違法総代会直後の目崎真弓所感(平成9年12月

「神の国」誌における霊界物語改竄事件

座談会(2006年11月)

改竄の実例