インド・ウダイプルにて
2007/12/30 月光分苑・目崎真弓
アヌヴィバの国際会議を終えて
ウダイプルから60キロ南東のラージサマンドにある「子どもの平和の城」にて、ジャイナ教テーラパンタ派の国際会議が行われた。会期は12月23日から28日まで。12月28日の第7セッションで「創造的非暴力の活動」と題して大本事件を通して聖師さまのご活動を直接、紹介させていただくことができた。同日午後には、奥原さんがキング牧師やマハトマガンジーを通して非暴力と平和についてスピーチされた。
その前日、パキスタンの前首相ベナジル・ブットさんが暗殺されたという大きなニュースに、この日の朝、会場には重い空気が流れていた。
原理主義グループの犯行らしいが主義や主張を暴力で封じることは明らかに許されない暴力であり「非暴力と平和」の会議に集まる人たちに衝撃が走った。
そんなときに、愛による文化的創造である「経綸」による聖師さまのご活動を紹介するスピーチやエピソードに会場の皆さんが静かに聞き入ってくださった。そして聖師や日本の神道に強い関心を示してくださったことを心から光栄に思う。
今私のバッグには、それらスリランカ、インドネシア、英国、韓国、インド、バングラデシュ、イタリアやルーマニアなどの知識人や学者、宗教家、平和活動家などの人々の名刺がある。みなさんが今後のコミュニケーションの継続を望んでくださっている。
奥原さんのスピーチも好感をもって迎えられ、終了後の会場に、若い人たち、また発言者たちが彼を囲んで笑顔があふれた。
型の使命と愛善苑の使命
ブット氏の暗殺事件は政治的にも重大な意味をもち、注目された人だけに、その陰で忘れがちだが同時に命を奪われた人、またテロや戦争のために命を奪われて顧みられることのない多くの人の命がある。
いつまで暴力の連鎖が続くのか、人のなかにある「獣のこころ」そして「人民三分」(本来の暖かく清く直くあるはずの人のこころは100人中3人ほどの状態)との神言が身にしみる。
かつて「愛善苑は宣伝使集団である」という機関誌の論調があり、教えの愛善苑とも言われてきた。その宣伝使集団が現今の社会情勢を座視しながら、神を忘れ営利事業へと路線転換を目指したり、聖典の改ざんを繰り返したのはまことに面妖であった。
武器こそ使わぬが、今までの愛善苑は、聖師さまの教えの道を歩もうとする者と教えを封じようとする霊動との葛藤であったと思う。現実を認識し、教えの鏡に照らす作業が抜けていたのではないか?
それゆえか「型の愛善苑」と日本や世界が私にはダブって見えてしまう。
バラモン教勢力の醜のすさびはすさまじい。宗教の名をかりて聖戦をうたいあげ、今、子どもまでも戦場へ駆り出している。学問や主義を唱えるだけのウラル教も健在だ。
このような時、自分の安心と幸福だけを願っていて、聖師さまの宣伝使はできるのか?厳しく問わなければならない。
省みる
2007年後半は愛善苑の内部において、溜まりにたまった汚泥が堰を切るように葛藤が続いた。
前半私は何も知らず、知らされず、日々のつとめに繁忙を極めていた。しかし愛善苑のありようについては十数年来「物語」によって考え続けてきた。ペレストロイカの教科書は聖師さまによって与えられている。だから信ずる道に従順に、ときに激しく厳しく行動せざるを得ない。あえて今ウダイプルにて一人静かに振り返る。
去る、12月1日旧責任役員の全員が解任された。その前に事務局員の一人が旧代表役員により解雇通知を受け、さらに事務所からの退去命令を受ける。
同日の総代会で新役員が選任される。直後の新役員会において代表役員が決まり、事務局員の解雇通知が撤回される。事務局長、編集長の交替。しかしこの役員交替の決議は8月の臨時総代会ですでに行われており、その後4ヶ月の葛藤が続く。
これらのことをなぞるだけで、事態がどれだけ異常だったか明らかなのだ。
溜まりにたまった汚泥とは11年前の事務局問題の際に当時の責任役員がいっさいの責任をとらず、事実を説明せず、したがって反省点も明らかにせず、組織の最高責任者として振る舞い、現場の者を切り捨てたのみで、あとは改革を望む批判勢力を封じてきたことにある。それも一流の誹謗中傷によって
当時の総代会の記録では事務局長の塩見氏が「何枚も舌を使い分けねば愛善苑はすでに空中分解していた」と発言。
この発言の背景には何があったのか?依然不明である。
事実封印のその証に、何か言わざるを得ないと判断された故出口和明先生が当時の「神の国」誌にぼんやりと経緯を書いているだけである。
役員でも無くむしろ利用される立場にあり、つんぼさじきに置かれて情報すら掴み得なかった先生が書くにはいささか無理や不自然があって当然なのだ。
で役員は一体何をしたのか?とにもかくにも現在に至る。
新しい思想
今まで実行されなかったことは、無かったことに等しい。つまり教えの実行がなかった。そういう意味で耳の痛いことになると思うが書きたい。
あるいは、これは新思想といえるかもしれない。
責任役員は組織運営に責任をもつ、何もしないでいいわけではない。運営面財政面に大いに責任を有する。単なる肩書きではダメだ。
旧勢力がおかしかったから交替した。これから良くすればそれでいい、と反省がないとしたら政権交替だけであって権力闘争に終始したにすぎないことになるのだ。
緊急に必要なのは「説明責任を果たす」こと。社会的に、道義的に、そして教えから何が「誤り」であったか明らかにし、全組織をあげて確認しなければならない。二度と同じ過ちを組織において繰り返さないために!
私はかねて主張してきた。聖師さまのめざす地平は「祭政一致」である。しかし現今はまず三権分立である。と・・・・・
「立法、司法、行政、」これが民主主義のしくみの原則である。
立法は総代会である。本来総代会は審議議決機関なので国会と同じである。教えに照らして運営方針、役員、財政について是非を検討し議決する。何に対してか?責任役員会の執行「行政」について良いか誤りか、認めるか否か議決の必要があるのだ。
神意、民意を代弁し、審議を通じ理性を働かせる監視役の機能もある。
それゆえ本部選出というお手盛りの総代は違法性がにおう。役員子飼いの総代を置き多数を握れば役員や事務局は思いのままに組織をコントロールできるというわけだ。
それで組織が腐らないほうがおかしい。
司法は形が無い。裁判所や警察、検察は無いがそれぞれが教えに照らして省みることが肝要である。だから司法は「教え」これは見えにくいが「物語拝読」によりそれぞれがこころに「厳のみたま」の恵みをいただくことによりおのずから律法に従うことができる。行動しなければ反省はゼロとなり司法は機能停止。
行政は「責任役員会」をはじめ直属する「事務局」「分苑役員」のはたらきである。これに協力して活動する人も含まれる。物語48巻にあるとおり
48巻3篇「愛善信真」、10章「天国の富」を参照。愛善苑は地上天国の実現が目的であるからここを熟読させていただきたい。一人は全体のために、全体はひとりのために、物語の示すままに互いを尊重しすべては神さまのためにこそ為さねばならない。
さて、総代は国会議員にも相当する。代議員だからバックには一定の会員があってその声を代弁する機能も果たさねばならない。パイプ役が相互の意思を通わせれば、神経系統、循環器系統が機能するように、教えが生き、社会性も生まれ、機能を果たしながら若手を投入することで次世代の育成もできる。
実はITの発達普及により、現在その気になれば意思の疎通は瞬時に可能だ。こころの持ちようひとつで「弥勒の世」は近い。
日の出の神のおはたらき
物語の中にバラモン教の人間を揶揄した歌がある
月が出たでた 月が出た 月はつきじゃが 嘘つきじゃ
嘘つき ゴロつき 運のつき
嘘がまかり通って総代会は御用総代会となり教えも理性も社会性もなくなれば闇だ。しかし愛善苑のなかに神の光は存在する。教えによってこそ改革の実も挙げられる。まず事実認識を会員全員で共有すること。物事を闇の中から明るみへ出す勇気と誠意、きついが作業が必要だ。
そうでなければ反省も生まれない。反省点の共有が大切だ。
すべてを白日の下にさらしてこそまっとうな判断ができる。清潔主義の実践でもある。
罪を憎んで人を憎まずという。神さまへの信仰を通してすべての人が更生できる道を示し実行すること。それには教えの光と事実認識で明かりをともし闇を追わねばならない。重ねて言うが、これ日の出の神のお働きだと信ずる。
単に「物語」と言うだけに終始しては「書物という物質」を崇拝するに過ぎない。
「霊動」を封じるのは教えによる人の心のはたらきしかない。
物語から学ぶ行政のありかた
前項で述べたように三権分立の原則が無視され、すべてがある人間の手加減で操作された場合、すべては闇の中となる。
権力の座にある役員と事務局(政治家と官僚)が一体になり(高姫と妖幻坊はセットで登場する・教えがなければ霊動になる)それらが組織を自由に運営したなら、これはソフトだが充分に暴力的であり、不正義となる。
そして甘い汁のためには利用できるものは利用し、反するものを消し去る。
ベナジル・ブットさんの暗殺は誰にもわかる凄惨なテロリズムだが、狡猾なものはひそやかに闇の中で動くものだ。物語には多くのテキストがある。金銭問題も要注意。
お金のことなら、物語には「金玉のつかみあい」として表現されている。あまり弱みを強く握られると目をまかしてしまうのだ。
さて、役員は神さまに率先してお仕えする覚悟が求められる。信仰的に研鑽もしなければならない、社会的道義はあたりまえに体現できなければならない
だから、責任を果たすには金銭授受には証拠を残し、神さまと会員に対しいつでも説明証明できなければならない。そのために事務常識が必要だ。これ信用の基本。
こ んなに大変なのに役員であることによっては報酬を受けることを禁じている愛善苑の規則はじつは信仰的に奉仕が重視されているかたちである。
いまどきの政治家は私腹を肥やすことばかりで、それも暴露され醜態だけれど、愛善苑が信仰実践することで清らかな世間の鑑となっていきたいものだ。
弥勒さまのご神格のもとで
明確な説明、反省点の共有が心に刻まれるなら、これまでに愛善苑にかかわってきたひとたちすべてはともに前進するためのプロセスとして悪かったことも肥やしとなって豊かな信仰土壌を創ることができる。
いよいよ革めることは前進であり何のためかというなら大多数の会員が信仰的に高まっていくこと以外にはないように思う。信仰的に高まるとは個人が生命力を強め勇みにいさむ信仰的人生を送りうることにつながる。迷信でなく明信へ。
楽をして心の田畑は耕せない。直日の御魂によってことの善悪を省み、ということは毎日の祝詞に奏上しているとおりである。
これが世間に鑑となって反映されるならば世界はもっと早く弥勒の世に近づくのではないだろうか。私は長年の物語拝読によってこのように希望を抱いている。
ラージサマンドの会議で聖師様のご事跡を「創造的非暴力の活動」と題してスピーチさせていただけた、その安堵感のなかで、ウダイプルの高台、ファテーサーガルの美しいホテルで休日を頂いている。
奥原さんも別室で英文原稿を和訳する作業を始めたのではないかと思う。
自分の力だけでは為しえない宣伝使活動、それは聖師さまのおはからいとしか思えない。今回ごいっしょいただいた奥原康晴さんは「白梅の会」のメンバー、アメリカで学業を終え今年3月まで現地企業で働いてきた。英語にすぐれた几帳面な青年だ。
愛の善 信の真をば まっこうに かざして進め 海のそとまで
ときどきにくちずさむ、霊界物語の余白歌であるが、すべては聖師さまのお導きと信じ、勇気と感謝の思いが湧く。
海外から聖師さまのみ教えを求め、あるいは愛善苑に関心をよせる人々が訪ねてこられる日はそう遠くない予感がする。
多くの人と人が顔を会わせ、愛と親しみをもって宗教の障壁をこえ、言葉の壁を克服して交流し、高めあうことができますよう、改革の進むことを願ってやまない。
長年心をしめてきた愛善苑の改革について、ひとりだけの贅沢な時間をいただけた折に「気づかせていただいたこと」を書きとめておきたい。
また、あったことをつけとめるのは、今後さまざまな問題解決や改革への道しるべになる大切な資料たりうる。善と悪の鑑のでる処なのだから。
インド、ウダイプルの一角で心の向くまま脱線また脱線。旅行記には進めない。
ささやかな試みではあるがラージサマンドでのスピーチ原稿の掲載を別項にお願いできれば幸いである。
5回目となったインドの旅、いろいろな出会いや記録は別にご報告したいと思う。
惟神霊幸倍坐。
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