神話と訴訟
2010年6月27日
目崎真弓
改革はみろくのご神業
小さな宗教団体・愛善苑では長年に亘る「組織運営上の金銭問題」が表面化し、それをめぐって、隠蔽しようとする側と、事実を洗い出して解明し、できるならば損害をとりもどし、清潔な明るい組織にしようと行動する側が葛藤している。またどっちにもつけずさりとて、明確な改革でもなく、役員に従おうという古い体質のグループもあるようで、どうやら三つ巴だ。20年ほど前、教えに強い組織といわれたが、今その影も無い。
平成8年、事務局問題が発生したが、当時の役員がそろって隠蔽し、当事者の一部だけを切り捨てた。表向きは事務局員の不心得としたが、裏には組織としての路線の方向性の欠如、裏に潜んだ金銭問題があった。役員以外は秘密の秘であったらしい。出口和明先生はこのとき、組織の宗教色を薄めようとする人たちと、宣教を進めようとする二つの異質なグループが存在し葛藤を深めていた。と書いているがそれも一面だ。
事実を隠蔽し作り事をする姿勢、そこには正しく生きようとする精神が微塵も見られない。四大主義の実践は信仰の柱であるが、それはまったく考慮さえない。これを悪という。
なぜなら、瑞霊真如・聖師の教えを排除する積極的行動であるから。
ちなみに、私はつねに改革を願ってきたから、この事務局問題にも総代として大きくかかわった経験があるが、役員や当時の事務局長らの妨害によって改革はならず、逆に悪人であり人間性に問題があるとまで吹聴された。それも所属していた分苑のK氏らによってなされ、K氏はのちにその功績によって代表役員にまでなっている。
「物語」1巻の最初からあるように、神素盞嗚大神の四魂は竜宮城の体主霊従派によって徹底的に妨害、讒訴、迫害されるが、私は同じ心境だ。竜宮城は体(組織)のモデルだり象徴なのである。聖師がかくも執拗に現実物語を口述または筆記されたのは、聖師がすべての「改革」の型をされたからである。これを学び事実を知れば見えてくるものがある。
さて、教え不在、悪事や疑惑の隠蔽を組織ぐるみで行い、瑞霊の教えを無視し、教えを守ろうと実践する人間を排除し、話し合いさえ拒否してきた結果、どんどん会員の減少を招き、後継者さえ目を向けない状況である。宗教団体にとって一番大切な「信頼関係」がすでに崩壊しているからだ。すでに愛善苑は役員たちによって、会員自身によって衰退壊滅の状況にあるといってよい。
『疑惑の根源を温存しようとする役員改心なされよ』である。
だが、人に言われて改心できるものではない。「物語」は戦いの物語りでもある。勧善懲悪も柱のひとつだ。それすら理解せず旧漢字だ、旧かなでなければ、などとさわいでいる。
古事記と霊界物語の予言を読む
このような組織の状態を人体にたとえると、どうなるか?
つまり、体は虫食い状態で頭も体も腐ってきているにもかかわらず、その病を治そうとはしなかった。これでは生命力は尽きてしまう。単に時間の問題である。
結論を言おう。瀕死の状態である。組織の中にはすでに教えがないからである。口で神の名を唱えるだけなら誰でも出来る。
ただ瀕死の体の中にいる一細胞は全体が見えない。次第に活力を失い神から遠ざかっているにもかかわらず、客観性が無いため自分の状況がまったくわからない。判っているのはモノを見る「眼」の系統くらいかもしれない。
こんなときこそ、王仁三郎は教えの「鏡」を与えているから、その鏡で見ることは可能だ。「物語」を熱心に拝読し学んでいるひとはどうか自力で判断していただきたい。
また私は類似のお話を思い出す。古事記である。
スサノオが黄泉の国へ母イザナミを慕って行ったところ、その肉体はすでに亡び、ウジがわき醜い姿であった、と古事記にあらわれているのとイメージが重なる。
イザナミは御子「カグツチ」を生んで死に到る。火力文明のことでもあり、エネルギー、あるいは経済力とも読み取れる。
小さな組織に限っていえば、精神的なリーダーであった人の執筆や宣教活動によって、組織のパワーがついてきて、それなりに力があった。それと組織の腐敗はおそらく同時であったろう。たぶん宗教団体によってお金の欲しい人は、この際、寄生虫になりかねない危険をはらむ。神代の昔から組織にはウジがわいていたのだから、人間社会、欲望と節制は永遠の課題である。
さて組織(肉体)は一面、複数のスサノオの母(母体・教えの道場)とも言いうる。組織が甘い汁を求めて巣食う虫どもの巣窟となって、隠しようもなく穴があき、糞がこぼれている状態、その現実を見てしまったものがいたとして、イザナミ(組織)の実態を見たスサノオと同じ状況だといえる。
スサノオは見てはならないものを見てしまった、こういうことなのだ。本当のイザナミは宇宙の母なる神であり地球そのものでもあり、本物は滅んではいないのだから、古事記など、神話のイザナミは変化していく地球環境や世界、小さくは組織のことと読み替えながら教えを受け取りたいと考えている。だから物語ではイザナミも真偽二つ語られる。
さてそこで、役員は事実を見てしまった人間に己の悪をなすりつけて、極悪人にしたてて追放するにいたった。実際は村八分にし、誰も相手にせぬように計らった。「組織をのっとるつもりでいる人物」というのが役員たちの宣伝文句である。
スサノオが高天原をのっとりに来る、というのと同じだ。ここまで古事記と内容が酷似していると、頭の悪い私も「なるほど、神様の予言も、古事記の記述もこれは予言であろう」と納得できるのである。
一般の信者は役員を信じた。付き合いもなく話し合うこともない私どもを吹聴だけで排除にかかる人たちも竜宮城とかわらない。
「ウチ(内部)は洞ホラ、外は統ぶスブ」の状況が進行するに至る。わたしたち、本当の改革はは外に排除されてきたから。運営には一切かかわってこない。最近役員として一人入閣したが、これもすべてが妨害攻めにあってきた。
力がついてきたと同時に(霊・力・体がそろった平成元年頃から)体(組織)はすでに生命力を失い滅びに向かって突き進んできたと見なければならぬ。
病巣をひたすら隠し、表面を糊塗してきたから、内実は悲惨である。死は時間の問題。だから、再び言うが、組織の破壊者は役員信者それ自身にほかならない。
私自身、二〇年に及び、信仰的に忍耐しながら、自費でひたすら活動を続けてきた。
起死回生はなるのだろうか? 改革を拒否し妨害するものは弥勒さまを封じ込める側にたつ。彼らは、神が救いのために教えを下してもこれに逆らって省みることがない。
ミソギとウケヒ
さてイザナギに眼を向けてみよう。古事記や「物語」を思い出してみる。
イザナギのミソギによってはじめてスサノオが誕生し神々も活動を始める。アマテラス(天上界の主宰)とスサノオ(地上の主宰)の天の安河のウケヒも元はといえば、背景には自己愛によって混濁しきった地上の神人たちの状況があった。地上を治めきれずに泣き悲しむスサノオ、母の国へ行こうと別れをつげに姉神のもとを尋ねた弟をアマテラスは国をとりにきたのであろう、と疑い、武器をとって待ち構える。
父イザナギはスサノオ追放をやむなきこととし、再起をひそかに約束し、時の到るのを待つ。すでにスサノオとアマテラスのウケヒは王仁三郎によって終わっている。綾部での開祖ナオと王仁三郎の水火のたたかい。そして第一次、第二次大元事件だ。確実に時は過ぎ、歴史は刻まれている。
いたずらに同じ事を繰り返す過ちは、神がお許しにならないのではないか。それでは王仁三郎聖師が苦難の道を歩み、型を成就し、教えを遺してくださった意味がなくなってしまう。
本当の闇が開け放たれるのは、私たちが顕真実にたって教えの実践をするときだ。
私は神名をいろいろと引用したが、神名は実際の人物をさすのでもなく、役割とその精神性をさしている場合、立場や位置を示す場合があると思う。神話は比喩的であり擬人化してある場合もあり、そう単純ではない。予言は簡単に人に知られないようにベールに覆われているものなのだ。神話はかなりファジーにしかし私たちの内部意識に確実に働きかけているといえる。
訴訟問題
さて金銭の不正疑惑だが、役員主導で隠蔽の決議がなされたため、ややこしい感じだが、今、東京地裁で裁判が開始された。隠蔽さえしなければ、ごく簡単であったのだが。
「宗教団体に裁判はふさわしくない」「宗教団体内部から訴訟するなんて聞いたことが無い。前代未聞」「○○役員は善人なのになんで訴えるのか」これが隠蔽グループの言い分である。
ここに清潔主義は存在するか?四大主義の実践に関して言うと、四つのうち一つ欠けるとどれも実行が出来なくなってしまう。いつも和明先生が講座でおっしゃっていたことだ。
ミソギはミソギ祓うの言葉どおり、清潔主義に含まれる。この意味を考えれば、すでに教えに反して、自浄作用すら発揮する力のない場合、訴訟の重要性は一目瞭然だ。
腐った体に巣食い、まだ命脈を保つ存在、浄財を私物化し闇にうごめく輩、それを温存し同じ事を繰り返す人間が実在したならば、ミソギは恐ろしいにちがいない。
人間まっとうに働くこと、まじめに正しく生きようとすることでいくらでも更生はできる。ミソギがこわい人、キライな人はスサノオ集団の場にふさわしくないのではないだろうか。コトタマによるミソギ(裁判活動)は国の法のもとに法廷で行われる。だからへたなゴマカシやウソでは戦うことができないであろう。
前述のように、ミソギによって組織が壊滅するなら、その組織はもともと、すでに生命力を失っていたことになる。そこに温まっていたと思い込んでいた人たちも同じことになるかも知れない。ただ、個人による差異があり、一まとめに論ずることは難しいかもしれないが、何かあったときに、おのおの信仰の力が現れるはずであると思う。
自浄作用すら発揮できない組織は、社会の法によりミソギやウケヒをし、ものごとを明らかにした上で、破れ腐った身体を洗い直し、起死回生をはかるしかないのである。
訴訟に踏み切った私たちを「乱暴モノ」と決め付けているらしいが、スサノオは荒らぶる神でもある。悪に都合よく、優しく女のようなご精神で、すべてを許すだけではない。聖師は大本事件でも戦い抜き、前進しつづけられた。モンゴルでは、聖師を利用し聖師の言葉を無視したロセンカイの最後はどうであったか、事実に学ばねばならない。誠に厳しいものがある。
ほんとうに「物語」に学び、歴史に学び、現代社会を見ている人には小さな宗教団体の中の出来事が、実は王仁三郎の仕掛けたポジティブなフィルムにまた同時にネガにも相当するのだと理解できることだろう。このポジの中で、自分は悪に加担するのか善に加担するのか二つに一つである。おそらく大勢か少数かなど数の問題ではない。
ひとつの神、ひとつの世界
たびたび日本とヨーロッパを往復し、時にはミャンマーやカンボジア、タイ、インドへと足を運んできた私は、その土地を人々の生活を見聞する機会をいただく。そして日付変更線を越えて空を飛ぶ。実感として世界はひとつだ。人間だから、歴史や文化、人種などの違いはあっても、みな平和に暮らしたい、豊かになりたい心は一つだと実感する。美しいものは誰が見ても美しい。醜いものは醜い。辛く苦しいことも同じだ。だまっていても分かり合う心も目もある。
ここ、ローマは連日観光客で賑わうが、一方物乞いをしなければならない人も見える。人種も言葉もいろいろ交じり合う街だ。ここに来ればなんとか生きていけるのではないか、と一縷の望みをもってアフリカやルーマニアなどから人が流入する。アフリカから見るとイタリアは「ファーストヨーロッパ」なのだ。
彼らだって、生れ故郷で安心して働けて、命が保証され、家族や親類と共に生きられることがもっと幸せに違いない。近年ローマ市の政策でジプシーは多く街から排除された。
日本だって、不況の波を受けて、若者の失業が多い。生活に苦しむ貧しい人たちが増えているし、生活保護も受けられずに餓死したひともあった。一方で政治はどんどん信用を失い、役員に相当する大臣、総代に相当する議員は、国民そっちのけで、おのれの利益で動いているように見える。
ミャンマーの軍事政権下でもやはり弱者は苦しい生活を強いられる。まことに弱肉強食の世界がある。愛善苑の中はこういう世界の縮図でもある。そこで悪事や疑惑を隠蔽すればどうなるか?長年組織を自由に操ってきた人物が存在することも事実だ。
飛躍して申し訳ないが、多くの地球人が幸せに暮らすためには、小さなポジ世界から悪と虚偽との逆業をなくしていかねばならないと考えている。それが教えの研鑽から得たものである。自分ひとりだけが幸せでなにが「みろくの世」なのか。ウソでかためて良い世の中が来るはずがない。言心行一致の誠の信仰こそがすべてのカギである。
だから、この訴訟活動の峠を越える努力こそ目下の与えられた役目と思っている。もう時が来たのだと思う。限りなく小さな組織だからこそできることがある。
2010年6月27日 ローマにて 目崎真弓 惟神霊幸倍座