出雲参拝記・スサノオゆかりの神社をたずねて
松田明 (平成20年9月17日)
須賀神社
平成20年9月13日。翌14日に若草分苑にて行なわれる月次祭に出席するため出雲へと向かう。松江到着後、若干時間があったので、この機会に目崎真弓宣伝使と共にレンタカーを借り、付近にあるスサノオゆかりの神社を参拝することにした。
まず最初に訪れたのは松江市大東町の県社・須賀神社。御祭神は須佐之男(スサノオノ)命と奇稲田比売(クシナダヒメノ)命、そしてその御子とされる清之湯山三名狭漏彦八島(スガノヌヤマヌシミナサロヒコヤシマノ)命の三神。小さいながらも綺麗なお社で、気高い印象を受ける。
この地は神代においてスサノオノ命が、ヤマタノオロチを退治した後、クシナダ姫とともに住まわれた“須賀之宮”のあったところ。そして此処でスサノオノ命が歌われた八雲神歌をもって“和歌の発祥”とされており、スサノオ=王仁三郎聖師の信奉者にとっては非常に重要な聖域である。
社務所のかたが勧めてくださるままに、社殿に上がらせていただき、両名で祝詞を奏上。さらに目崎宣伝使の美声をもって八雲神歌を朗詠、ご神霊に奉納させていただく。
スサノオノ命が「我が心須賀須賀(すがすが)し」と仰せになられたとおり、ここに居るだけで、それはそれはすがすがしく、心が洗われるような気がした。
次に、約2キロ先にある奥の宮、スサノオご夫婦の神蹟地であることを証しする磐座(いわくら)、通称夫婦岩へと向かう。登山道路わきに車を止め、約400メートルを歩いて登る。
実はこの場所こそが須賀神社の原社地であり、もっとも重要なところである。しかし、現在は夫婦岩の前に高さ3,40センチほどの小祠があるだけで、ほとんど人が来ている気配がないのが寂しい。少し休んで息をととのえ、ここでも祝詞を奏上。
かつて聖師は、須賀の宮の旧跡地に建つ須賀神社が、今はすっかり世に埋もれてしまっていることを嘆かれ、
須賀の宮の神前(みまえ)にたちて神社(みやしろ)の あまり小さきに涙こぼるる
という歌を詠まれている。全人類を贖うため、すべての罪、苦しみを一身に引き受けられたスサノオのことを思うと、やはりこのままではあまりに申し訳なく、しばしのあいだ感慨にふける。
熊野大社
それから山を越え、出雲の国一之宮・熊野大社へと向かう。熊野大社というと、和歌山県のが有名だが、こちらでの言い伝えでは、古代に出雲族の一部が東に移動したとき、御祭神を勧請して紀の国にも熊野大社を建てたのだ、こちらこそが本家である、ということであった。御祭神はやはりスサノオ、ただし、ここでの御神名は「熊野大神櫛御気野命・クマヌノオオカミクシミケヌノミコト」。
参拝の後、目崎宣伝使とともにおみくじを引かせていただく。内容はそれぞれにとって非常に示唆的なものであった。大神さまに深く感謝しつつ、ここを後にする。
ちなみに出雲大社でのさまざまな神事に使われる神火は、毎年10月15日に此処、熊野大社で行なわれる鑽火祭(亀太夫神事)でおこされた火が出雲大社に渡されたもの。
また熊野大社の宝物の中には、八雲琴の創始者、中山琴主が奉納した日本最初のものといわれる八雲琴と八雲琴譜が含まれている。
これらふたつの神社はさすがに素晴らしい気の漂う、まさに神気のあふれる神社(かむやしろ)であった。しかしながら。こちらで祀られているスサノオは、三貴子の一人とはいえ、やはり八百万の神々の一人としてのスサノオである。王仁三郎聖師によって明らかにされた本来の神格、つまり主(ス)神の神格としてのスサノオを祀ったものではない。残念ながら、今のところスサノオの本拠地出雲においてすら、スサノオを救世主神として祭祀を行なっておられるのは、愛善苑・若草分苑の方々以外にはない。
私なんぞがあまり偉そうなことは言えないが、せめてこのHPをご覧になった方々、そして出口王仁三郎聖師の教えを受け入れることのできる方々は、須賀神社や熊野大社、あるいは関東であれば氷川神社など、スサノオを御祭神とする神社を参拝されるときには、実はスサノオこそが主神であり、我々の贖い主であるということを思い起こしつつ、祈りを捧げて頂きたいと思う。惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)
八雲神歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる 其の八重垣を
王仁三郎聖師のお歌
須賀の宮 八雲のみ歌 なかりせば 敷島の道 栄えざらまし
|