『神の国』343−4号に掲載の塩津晴彦役員の妄論について
武田崇元
本稿では、『神の国』343号に掲載された塩津晴彦氏の<本誌『霊界物語』「王仁校正版」掲載について>および『神の国』344号に掲載の同じく塩津晴彦氏の<愛善苑の教典『霊界物語』の研鑽に寄せて>に関して、主に下記の四点を中心に論じる。
(1)聖師は『霊界物語』をみずから執筆するつもりであったが、病気のため、非常手段として口述した。(『神の国』343号)
(2)「非常手段」としての口述には「誤解や誤謬」が危惧されるので、聖師は「物語が口述発表された時から、いずれご自分で手を入れること」が決定されていた。(『神の国』343号)
(3)それが今回、入手したいわゆる「聖師校正本」であり、その表紙では「出口瑞月口述」という表記が「出口王仁三郎著」と書き改められている。(『神の国』343号)
(4)『聖師校正本』の掲載にあたっては、旧漢字をふくめ忠実に翻刻せねばならない。(『神の国』344号)
まず、(!)(2)について論評する。
343号31頁において塩津氏は「なぜ聖師さまは校正本を必要とされたのでしょうか?」と問いかけたうえで、「答えは全て『物語』に書かれています」として、『霊界物語』から四か所を引用し、結論として次のように述べる。
「聖師さまは「いずれ物語は発表する」とお考えだったのですが、大本一次事件が起こり大正十年旧九月五日に京都地裁で懲役五年の判決がなされた直後の旧九月八日、突如神命が下ったのです。しかし聖師さまはご病気であり、執筆が出来ず困っていたところ、”口述でよい、筆録者は誰々”という神命があったので、止むを得ず口述した、と書かれています。(引用その四)そしてこの神命に追い打ちをかけるように出口開祖から(馬に鞭打つが如き様子で)催促があった、と記されています。
つまり聖師さまとしては、神さまの一番大事な教えが、口伝えによって誤謬があるかも知れないと躊躇されていたのでした。しかし開祖から強く催促をされ、ついに口述に踏み切られたのです。口述という手段は非常手段だったのです。聖師さまは、「物語」は聖師自らが筆を執り、確実に神さまの教えとして天下に開示するご意思だったのです。従って、「物語」が口述発表された時から、いずれご自分で手を入れる事をお決めになっていたのです。事実、口伝による誤解や誤謬を危惧された聖師さまは「物語」の中で、注意をされています」(傍線武田)
もしもこの塩津氏の所論が正しいとすれば、わたしたちの物語に対する認識は根底から覆されることになるが、その点について検討する。
塩津氏の所論のポイントは下記のように整理できる。
@聖師が執筆するスタイル……本来の望ましい手段。「確実に神さまの教えとして天下に開示」できる。
A神が聖師の口を借りて口述するというスタイル……非常手段。「誤解や誤謬」が「危惧」される。
たしかに引用2で語られた事件の時系列のみを追うならば、聖師におかれてはみずからご執筆の意図があったが、「眼を病み、頭脳を痛めて」いたため困っていたところ、「汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ……」との神教が下されたという流れとして整理することが出来る。
しかし、それはあくまで『霊界物語』ご口述という人類史的意味を帯びた歴史的事件に到る経過を、たんに時系列に沿って述べられたものであり、この記述を読んで、ご口述を(劣位の価値評価を含意する)「非常手段」と受け取るのはかなり無理があろう。
『霊界物語』第48巻「聖言」によれば、聖師は「大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流」を受けて、「暗迷愚昧なる現界人に対し、霊界の消息を洩ら」されたとある。
従って、引用2の『霊界物語』2巻序文にある「汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ……」というのは、つまりは神が聖師に直接内流されて、この物語を発表しているという宣言であり、『霊界物語』の権威の淵源を語っている言葉なのである。つまり『霊界物語』はそのような神の内流を受けた書物として成立しなければならなかったし、そこに物語の無限の権威が存するのである。
明治33年頃に成立した「原・霊界物語」が暗愚な役員によって焼却されてのち、聖師が再び稿を起そうとされても、「どうしても神界から御許しが」なかったのも、いざ「神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ」との神教がありながら病気のために執筆不可能な状態に置かれたのも、すべては神みずからが瑞霊聖師と一体化して口述するという未曾有の大神業へと至る伏線なのである。
「御口述の状態は多くの場合、まず、30分程横になり、この眠りから覚めると布団に横臥したままで、一種のトランス状態となり、一冊の参考書も置かず、口述には全く淀みもなく、言い直しも無かったと言います。また、当初は一巻に十日ほどであった口述のペースも、やがて筆録者が慣れてくるにつれ、三日で一冊というハイペースで口述されて行くようになり、第四十六巻は二日間で口述されています。
また、口述の内容が寒冷地の時には夏でもコタツを入れ、逆に口述の内容が熱帯地方となると冬でも団扇で扇ぎながらの口述となりました。こうした御口述の現場は筆録者だけでなく、時として多くの信者や来訪者の見守る中で行われました。口述時から一切に隠し事のない形で、『霊界物語』が生れた事は、大神様より直授された真実の神書である証であり、御口述の現場を見た者は誰もが深い感銘を感じました」(愛善苑HP「霊界物語口述の状況」)
ここには、「大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流」を受けてのご口述の様子が的確に語られている。
一方、塩津氏はそのようなご口述の意義を、「非常手段」という表現で否定するのである。
しかしながら、引用1から4の文章のどこをどう読んでも、塩津氏のような結論に辿りつくことは不可能である。
「聖師さまとしては、神さまの一番大事な教えが、口伝えによって誤謬があるかも知れないと躊躇されていた」ということは、引用1から4までのどこにも書かれてはいない。従って、これは塩津氏の推論であると思われるが、それにしても、いかなる思考経路からこのような推論が生じたのであろうか。
おそらく塩津氏は引用4の文意を読み違えているのである。
引用4は下記のとおりである。
「今日まで現界の何人にも発表されざりし霊界の物語、成る可く誤りなきやうと焦慮しつつ口述致しましたが、何分凡夫の身を以て広大無辺の宇宙の意思たる神意並びに出来事や、状況を述ぶるのでありますから、口述者幾十年かの後、霊界に到った時、神々より天下に誤謬を伝へた『太い奴』とお目玉を頂戴することの恐ろしき思ひに沈みつつ止むをえず口述したのであります」(『霊界物語』第22巻序文)
たしかにここには、口述内容に誤謬があるかもしれない、という聖師の懸念が表明されている。塩津氏はこの誤謬への懸念が、口述という手段にあると考えたのである。しかし、それがまったくの読み間違いであることは、下記のような問を考えれば明白であろう。
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問 引用4の文章を読んで、王仁三郎はなぜ口述内容に誤謬があるかもしれないと考えたのか、その理由を下記の選択肢から選びなさい。
1 執筆ではなく口述という手段によるものだから。
2 凡夫の身をもって、宇宙の意思である神意や神界の出来事や状況を述べたものだから。
3 霊界に行ってから神から叱責されることを恐れて緊張したから。
4 人間には誰でも誤りがあるから。
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正解は2である。前段に「……のでありますから」と理由が明示されていることから明らかである。「凡夫の身」は謙譲表現。聖師がいかに天才であれ、救世主であれ、神人であれ、現界の言語で彼方の世界の消息について語るにはおのずから限界があるのは当然であろう。その限界は断じて口述という手段に規定されるものではない。
ところが塩津氏は、さらにご自分の妄説を裏付けるべく、「事実、口伝による誤解や誤謬を危惧された聖師さまは「物語」の中で、注意をされています」として、物語から次の文を引用する。
「この霊界物語も、人智を以て判断することは出来ませぬ。たとへ編輯人、筆録者の解説といへども、肯定しては成りませぬ。ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全でありますから、一寸書加へておきます」(第7巻総説)
しかし、これがどうして聖師が「口伝による誤解や誤謬を危惧」されていたという仮説の傍証になるのか、もはや常人には理解不可能である。
「ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全であります」という聖師の言葉を噛みしめなければならないのは、まず第一に塩津晴彦氏ではないだろうか。
さきほどの引用4にしても、ふつうに「単に文句のまま、素直に読」めば絶対に読み間違えるはずのない文章である。
それをなぜ塩津氏は誤読したのか。こういう誤読は読み手になんらかのバイアスがかかっている場合にしばしば起こるといわれている。
どうやら塩津氏には、執筆と口述を比べた場合、執筆のほうが対象を正確に表現できるという強固な思い込みがあるようだ。
これに関連するのが、(3)の問題である。34頁冒頭「どこを校正されたのか」という小見出しに続いて、塩津氏はこう述べる。
「聖師さまは、「物語」発表の経緯の引用説明で明らかなように、口述「物語」ではなく、聖師さまの著作として校正されました。まず校正された全巻の表紙では戦前版の「出口瑞月口述」という表記が「出口王仁三郎著」に書き直されています」(下線部武田)
ここでは論旨はますます混乱し、文意はますます不透明になっている。とくに下線部のような文章になってくると、いったい何が言いたいのか理解は不可能である。
そもそも口述であろうが、みずから筆を執ろうが、著作である。たとえば塩津氏が口述したものを「塩津春彦述」と表記しようが「塩津春彦著」と表記しようが、原則として好みの問題である。
さて、問題の箇所であるが、「出口瑞月口述」の「瑞月口述」に二重線を引き、「王仁三郎著」としたのは聖師さまご自身であろうか。この「王仁三郎著」の字体は、文末の「口述者識」を「王仁」と訂正された字体とはかなり隔たりがある。
文末の「王仁」の字は、聖師の作品を見なれた者にとっては、おなじみの書きぶりであり、聖師さまご自身が修正されたものであることは間違いないが、「王仁三郎著」は聖師さま以外の第三者による加筆とも思われるのである。
もちろん、正確なところは校正本に書き込まれた他の文字と比較して見なければ判断できない。ただし、塩津氏がこれを聖師さまご自身による加筆と断定するのであれば、その点の考証を緻密にする必要があろう。
ここでは二つの可能性を指摘しておく。
T 聖師による修正ではない場合
戦後、天声社における物語刊行時に「口述」を「著」とすることに決定し、編集者が印刷にまわす際に修正を施した。
U 聖師ご自身がみずから修正された場合
聖師さまご自身が「口述」を「著」と修正されたとすれば、そのご意図は物語が「神示の創作」であることを明示されたものと推測される。第二次大本事件に際して、法廷において、口述の主体、発話者は神なのか聖師なのかということが問題となり、それに対する聖師の回答は「神示の創作」であった。Tが正解だとしても、その背景には、聖師が「神示の創作」とされた経緯があったからと推測される。いずれにしても、塩津氏が主張するような理由からではないことは明白である。
なお、「どこを校正されたのか」とみずから問いかけたうえで、塩津氏が指摘するのは、この表紙の修正以外は、余白歌にも校正の筆を入れ、あるいは加筆されているという点と、「ん」を「ぬ」あるいは「ま」(「む」の間違いと思われるが、塩津氏の文章では「ま」となっている)と校正されてたという2点のみである。
余白歌の問題について別に論じる予定であるが、後者はたんに表現を標準的な仮名づかひに統一されただけのことである。ところが塩津氏は次のように言う。
「また各巻に渡って丁寧に「ん」を「ぬ」あるいは「ま」などへ書き換えられています。大和言葉に充ち満ちた神さまの教へと校正されていったのです このことによって「物語」は言霊が溢れる御神書となり、我々が「物語」を拝読するとき、拝読する人々の言霊の妙用によって自然と世を清める働きをしているのです」
この論によれば、聖師の校正を経る以前の物語、つまり初版から第三版に至る物語は言霊が溢れていない欠陥品であり、「言霊の妙用によって自然と世を清める働き」がなかったことになる。ここまで来ると驚くべき奇説という以外にない。
そもそも「ん」が「ま」に書き換えられているというのがどのようなケースを指すのか筆者には想像できない。ぜひ塩津氏にご教示頂きたいものであるが、おそらくは「む」の間違いではないかと思われる。
いずれにしても、この修正は通常の仮名づかい表記に統一されたという以上のことではない。しかもこの修正にもとづき、戦後の『霊界物語』は旧天声社版、八幡書店版、愛善世界社版はすべて翻刻されているのであり、いったい何をいまさら大騒ぎをしているのか、ほとんど理解不可能である。
次に(4)の問題を論じる。『神の国』誌344号の塩津晴彦氏<愛善苑の教典『霊界物語』の研鑽に寄せて>をご覧頂きたい。
ここで、塩津氏は旧漢字復権論というますます奇怪な提言を行ない、現に343号から『神の国』誌巻頭に掲載の物語は旧漢字で組まれているのである。
ちなみに、この塩津論文(というか「作文」)表題中の『霊界物語』の「霊」の字は繁字体(旧字体)で表記されている。
ここでの問題の焦点は『霊界物語』第10巻の序歌である。
これが『神の国』誌8月号に掲載分では「新体詩」となっているが、聖師校正本(つまり戦前の第三版に聖師が校正を施されたもの)では「神體詩」となっているところに塩津氏は注目する。塩津氏によればこれは本来的には「神體詩」と表記されなければならない。
愛善世界社版は「神体詩」となっているが、これではまだ駄目で、旧漢字で正確に「神體詩」と表記せねばならないと塩津氏は頑強に主張する。
その根拠は、聖師が「体」と「體」を使いわけておられたからだという。『霊界物語』では「霊主体従」の場合は「体」の字が使われている。では、なぜここだけ「神體詩」と表記されたのか、必ずそこには意味があるはずだと塩津氏は主張するのである。
その結果、塩津氏はもともと「体」字と「體」字が異なる文字であることをいまさらながらに発見する。
その論拠として塩津氏は萩野貞樹『旧仮名づかいで書く日本語』を引用する。
「「體」の字は当用漢字に入り「体」とされました。ところが「体」の字は当用漢字には入りませんでした。体は昔からある字でホンと読み、「おとる」「おそまつ」の意味です」
塩津氏はさらにこれを補足して、
「つまり「体」と「體」はまったく別の漢字なのだ。しかもその意味は「體」:からだ、てあし、かたち、すがた、ありさま、かた、きまり、もの、もちまえ(本性)、ものの本体、おおもと、である(角川書店『新字源』第二九八版参照)」
と述べ、「聖師さまご在世中には「体」は「體」の略字ではなかった」ので、聖師さまは「序歌 神體詩」と表記されたと主張する。曰く、
「(神體詩は)「神様の本来的な大事なこと、おおもと、を歌として教えるよ」と拝察すべきではないかと思う。「神様のおそまつな、つたないことを教えるよ」ではない。(神体詩と表記するのは)恐れ多いことである」
さらに塩津氏は、こう述べる。
「(霊主体従に「体」字が使われている)そのご意志は明快である。あくまで霊が主であり、体はこれに付き従うものである、という意義をはっきりとしめされている」(括弧内筆者補足)
と主張する。
ここにはいくつもの誤認、誤解が重複している。それを一つづつ解きほぐすのは紙幅の余裕がないので、端的に塩津氏の論が破産していることを指摘しておく。
塩津氏のいうように、もしも聖師さまが「体」と「體」を示差的に用いられたとすれば、下記のような例はどうなるのだろうか。
●『霊界物語』四十九巻(昭和八年第三版)
5頁 人間は其肉体を
6頁 形體を脱出したる人の本体
11頁 『道の大原』にも、大精神の体たるや至大無外至小無内とある所以である」
13頁 天國團体
224頁 體の都合が悪うムいますから
塩津氏の論によれば「大精神の体たるや」という場合には「體」でなければならぬはずであろう。また「體の都合」は「体の都合」でなければならぬはずだ。「形體を脱出したる人の本体」に至っては、塩津仮説に従うならば、「形体を脱出したる人の本體」でなけらばならぬ。
●『霊界物語』第27巻(大正12年6月 初版)
136頁 一体全体
●『霊界物語』29巻(昭和5年12月 再版)
36頁 よくも御神体を現はして
これなどは、塩津氏の論では、「神様のおそまつなつたない容れ物」という意味になろう。
●『神霊界』大正10年3月号(135号)所収の聖師論文
9頁 悪神の本體
10頁 御三体の大神様 肉體は出口直
12頁 肉体としては 霊体としては 霊主体従 形体具足して
塩津氏の論だと「御三体の大神様」は「三つのおそまつなつたない大神様」ということになるではないか。
一方、筆者所蔵の色紙には聖師さまは「霊主體従」と記されている。
つまり、「体」と「體」はかなりアバウトに使われているのである。それが当時の日本語表記の実情なのである。
たしかに字源的には「体」と「體」は異なるにせよ、現実には古くからこのふたつの字は区別されることなく使用されてきたのである。
まさか萩野氏がこの事実を知らぬはずはあるまいが、旧漢字復権を説く手前『旧仮名づかいで書く日本語』においてはこの事実を無視し、それを読んでにわかに知恵熱に罹患した塩津晴彦責任役員は、「聖師さまご在世中には「体」は「體」の略字ではなかった」と思いこむに至ったのである。
こういう間違った情報を機関誌に無責任に書く。たいがいの会員さんや読者は、まさか愛善苑の責任役員たるものが、間違いを書くはずはないと思っているので、たいへんな「発見」のように思いこむ。それをあちこちで吹聴しているうちに、大恥をかくことになる。
従って、これを馴れ合いで放置することは出来ぬ。こうしてここで、これを批判することで、ようやく愛善苑の体面が保たれるのである。
機関誌で活字になったものは永久に歴史に残る。活字にするまえに相談があれば、内々にお教えも出来ようが、活字になってしまったものはどうしようもない。そもそも月光からは互いに連絡を緊密にし、相教改の精神でいこうと何度も提言したはずである。その一歩として当分苑のメンバーが中心として運営している集中研修会にもお招きしたはずである。にもかかわらず、勝手に塩津氏が迷走された結果がこれである。
すこし話が脱線したが、聖師さまご在世中から、日本語文化圏において「体」は「體」の略字として流通していたことは下記の数例のみからでも明らかである。
石抜霊覚『霊感透熱療法相伝秘書』昭和3年
基本的に「体」字が使用されている。
44頁 人体解剖學
52頁 身体
『催眠術講義』昭和2年
49頁 被術者の身体 身体外部上
51頁 身体がフワリと
64頁 身体から二三寸
8頁 合體して生ずる
25頁 肉体
松原咬月『自然運動法』昭和3年
6頁 体操
5頁 ラジオ体操 身體の素質
2頁 人體 生命體
ラジオ体操のみ「体」字
以上はほんの一例である。もちろん繁字体の「體」で統一されているケースのほうが多いが、「体」字は例外的というわけでもなく、相当広範囲の出版物おいて使用されているのである。
これが時代を遡り、江戸時代の木版本ともなると、「体」のほうが断然多いという印象すら受ける。木版を彫るという技術的な理由もあり、江戸期にはさまざまな異体字が発達したである。(続く)
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