トスカーナの女神
2010年6月27日
目崎真弓
ミラノからトスカーナへ
2010年6月7日、ミラノに着いた私をイタリア池坊の一員ジョバンナさんがマルペンサに出迎えてくださっていた。ミラノでは彼女のお世話になって、生け花活動に専念し、10月末にミラノ市内の中心部のギャラリーをお借りして、花展開催が実現することになった。
彼女のいけばなへの情熱は、いまや日本文化を理解するため、日本語の勉強に熱を入れるところまで進んでいる。こういう熱意と努力に心からの尊敬と友情を感じる。
11日朝、ミラノ中央駅からフィレンツェへ。日本から予約してあったホテルに一泊して、まだ見ていなかったピッティ宮殿や花の聖母教会・ドゥオーモなどを観光。
この日の昼食と夕食はホテルに近いトラットリアでいただく。たまたまここのお店のオーナーシェフが日本人だった。で日本語でサービスしてくれ、夕食にはこの日のお勧め料理、スズキの蒸し物、野菜添えトスカーナ風に白ワインを楽しんだ。ひとりでなく次は夫と来たいなどと思いながらホテルへ帰る。
12日、元貴族の館だったホテルのダイニングで朝食をゆっくりいただき、出発まで庭の花々を見てまわる。初めて見る花はカメラにおさめた。美しく整えられた中庭は貴族の栄華をしのばせる。中年のボーイさんが水遣りしている。人の労力があって、はじめて庭は美しく保たれる。ひと時、楽しませていただく幸せを感謝しつつ、上流階級の栄華の影にかくれた名も無い人々の力を、私は思う。
カムチーア・コルトーナ
タクシーでゆとりをもって入ったフィレンツェ駅ではチケット売り場が長蛇の列で、しかも途中で休憩に入ったらしい窓口が閉まったりする。こんなことは日本ではありえない。心はあせりつつ、間に合わなければ、次の列車で・・・・・などとも思いながら、発車2分前に列車に滑り込んだ。乗り込むとき、重いスーツケースを若者が引き上げて助けてくれたのも、うれしかった。
10時47分フィレンツェ発、カムチーア・コルトーナ着12時55分の定刻に着いた。
ここでイタリアでの日本人生徒、洋子さんとご家族に合流。駅から車でひろっていただいてコルトーナのピアッツァーノにあるマリナロ家の別荘へ。この春にもお花の材料を採取させていただいたり、前年の秋にはコルベッツォロの木の実を摘ませてもらったりして楽しませてもらっている。
洋子さん手作りのパニーニで別荘のダイニングで昼食。トスカーナのハムやチーズはとてもおいしい。そして彼ら、ロレンツォさん(洋子さんのご主人)とマリーザさん(お姑さん)は仲良く庭での作業に出て行く。私は部屋でゆっくりさせていただき、お茶のしたくをする洋子さんとおしゃべりも楽しんだ。開け放った窓からは小鳥の声がたえまない。
大きなリンデンバウムの木々の緑、背の高い糸杉、松の木の赤い肌、真っ白なイングリッシュローズの茂り、ゆったりとした午後のひととき、ああ、ここはトスカーナなのだ、と思う。いつもせかせかと、何か仕事をし続ける習慣になってしまっている私には、このゆったりしたひとときが、もったいなく感じられる。木々の間から吹く風は心地よく、遠くにかすむ山々や離れて立つ赤い屋根の田舎家などを眺めながら、結局、少し昼寝をする。
夕食はコルトーナの町へ出かける。
駐車場に車を置き、急な坂道を登ってレストランへ。コルトーナは山の上にできているので、どこへ行くにも坂道をアップダウンしなければならない。途中で息を切らせてしまったマリーザさんを息子のロレンツォさんが手を引いて助ける。見ていてほほえましい。この日の食事は、私は黒トリュフのパスタにした。おしゃべりしながらの夕食は楽しく、最後のドルチェまで楽しんで、私たちはこの夜の最後の客になってしまった。
トスカーナの蛍
車が家に近づき、真っ暗闇のなかロレンツォさんが門をあけに降りていく。
そのとき、マリーザさんが突然「見てみて、静かに」と指差す。門内から家までのあたり、たくさんの蛍が飛んでいる。しかも相当に明るい黄色い光だ。門内で車を降りてしばらく蛍を見ている。自然のなかにあるこの別荘は、夜は闇に包まれる。見上げると星空も実に鮮やかで三日月が鋭く光っていた。その星空の下では蛍たちが曲線を描いて舞い続けている。この家のどこに水辺があるのか、私は知らない。蛍の営みにはきれいな水が必要だと、本で読んだ記憶があったのだが。
マリーザさんがわたしに「あなた、ナイチンゲールをご存知?このこえ、ナイチンゲールよ、私の庭に住んでいるのよ」と話しかけてくる。
「ヒイヒイヒイーッ、クワックワックワッ、ピピピピーー」とでも表現すればよいのだろうか、高く叫ぶようであったり、歌うようであったり変化にとんだ鳴き方が特徴だ。私はナイチンゲールの声をはじめて知った。
ナイチンゲールは夜通し、少なくとも私が眠るまでは歌い続けた。翌朝、白みかけたと思う頃からまたもやナイチンゲールが歌いだす。時計を見ると5時そこそこ。窓から声の方向を探すが、姿は見えない。だが高みから聞こえてくるところを見ると、おそらく糸杉のこずえにいるのではないだろうか。スズメやほかの鳥たちはもっと低いリンデンバウムのあたりからさかんに歌い始める。でもそれはナイチンゲールよりずっと朝寝坊である。日が高くなるとナイチンゲールは鳴きやみ、完全にほかの小鳥たちの時間だ。
一泊と二日の短い間だが、おいしい空気、美味しい食べ物、蛍の舞にナイチンゲールの歌。この屋敷の美しいバラの花々や、トスカーナの可憐な野草たち、さまざまなハーブ、どれもが貴重なトスカーナの恵みだ。
トスカーナの女神
この屋敷は画家だったマリーザさん夫妻が購入し、木を植え、花を育て、家を修復しながら絵を制作する場所でもあった。長年愛情をこめて手入れしてきた場所なので、できるかぎり手放さないでほしいというのが、マリーザさんの亡きご主人の遺言なのだという。
この家はすでに数百年の年月を経過している。ダイニング兼リビングにある巨大な暖炉は使い込まれた風格があり存在感にみちている。周りの豊かな自然が冬中の薪を保障する。冬、この暖炉にあかあかと火が燃える様子を想像するだけで楽しい。今の時代、ここで年中生活することは。そうたやすいことではないかもしれない。でも人間がどれだけ自然に生かされてきたものか、また労働とともに自然の豊かさを享受してきたのかを実感する。
フィレンツェを中心に花ひらいたルネッサンスの文化、今に残る壮大で美しい教会や宮殿の建造物、メディチ家の遺産や数々の美術品、そのどれもがすばらしいが、ひとびとの営みの基盤には豊かな自然がある。
日本と緯度を同じくするイタリアの四季折々の変化と恵みが、多様な命をはぐくむ。ここに私は「トスカーナの女神」がたしかに存在すると感じるのだ。フィレンツェはその町だけで文化が花開いたのでなく、背景には豊かな自然と働く人々があった。ピッティ宮殿はかつてのイタリア王宮でもある。
マリーザさんの話では、この屋敷はお百姓さんが管理してきたところで、昔、枢機卿が滞在する屋敷に近く、枢機卿の世話をする修道女が住んでいたこともあったらしい。どんなものを植えても良く育ち、牧草が自然に生えてくる。農地としても一級でそのぶん値段が高かったのを手にいれたのだという。夫婦で画家だったからお百姓の真似はやめたらしい。彼女は手植えしたメタセコイアや、松の苗なども見せに案内してくださる。
今年はあらたに果樹を植えている。子供や孫が果樹の恩恵にあずかれますように、というのがマリーザさんの願いだ。またご主人の最後の願いにそって、別荘を守ろうとする彼女の愛に私のこころはあたたまる。まことに天国も楽園も労働抜きには存在できない。
どうぞ、彼女たちにいつまでも神様のご加護がありますようにと願ってしまう。
出口王仁三郎聖師に祈る
心の中で、祈るとき私は無意識に、王仁三郎の写真のお姿を思い起こしている。旅にあっても家にいても同じである。
ミラノでもフィレンツェでもまたコルトーナやローマでも、多くのありがたい出会いに恵まれて、旅を続ける私は「ああ、なんとありがたいことか」と思うのである。たとえばナイチンゲールの声や蛍の乱舞だって、あたたかいイタリアの人たちのお世話があってのことである。「ありがとう」とお礼を言いながら、心の中で神への感謝がわきおこる。
そして、信仰ってなんだろう?と折々に考えてみる。私の信仰への目覚めは幼少からである。さまざまな人生の出来事の中で、その信仰が鍛えられてきたようにも感じる。
「安らかなる事を語りて、人の魂を弱らせる悪魔あり」などという聖師の神体詩の一節があるが、これを私は王仁三郎からの戒めであると受け取っている。自分の一身の安心のために王仁三郎は「教え」と説いたのではない。「物語」64巻下の復活祭の項でのテルブソンの演説に託して、自分は刃をもって生れたのだと言っている。
ありがたく暖かい出会いの数々に助けられ、旅をさせていただいているのだが、一方では苦難なことだってある。異質な考えや思いに副わないことのほうが多いのが人生だ。
私は歩きながら、折々に思う。宗教が人を救ってきたのでなく、宗教によって生きる人々が愛の奉仕によって、その献身によって、助け、助けられてきたのだといわなければならない。それなしには宣教はありえないから仏教でも、仏法僧という。
私が生け花を紹介し、お教えしながら外へ出るのは、華道を通じて神の教え、ほんとうの大和心を伝えたいと願っているからである。直截にいえば、神の手足としてお使いくださいませ。という祈りから出発している。行動は教えによらねばならない。表面上の優しさだけでは筋の通った活動はできない。時には怒らねばならぬときもある。
自分だけの幸せや安心を願うのは現世利益で利己心だ。隣人とともに幸せや安心をいただきたい、と願うのが「仁」の心ではないのだろうか。仁は人偏に二つだから、人間関係であり、「ひと」そのものを表現する。一人では生きられないのが人だから、利他の心が大切ではないだろうか。かくいう私も家族や人さまにささえられている。
そしてまた、王仁三郎の教えによって主神に祈りつつ行動する「ひと」はおのずから神のご加護をいただくものだと信じて疑わない。それが王仁三郎の神約である。
この世は娑婆世界だから、たまには「神」をカツブシにして私腹をこやしたり、おのれの悪を隠蔽するためには、善人を悪人と触れ回る人間もあるようで、神の道も平坦ではない。こんな人はウソも平気だが、聖師の物語にあるように、ウソはいつかはがれる。
惟神霊幸倍座 ローマ・ヴィア・ローディにて 目崎真弓 2010・6・27